明治十年ごろまでは国にも伝染病予防に関する法規もなく、従ってこれという予防施設もなかった。伝染病予防が強く叫ばれるようになったのは明治に入ってからコレラがしばしば大流行したことによる。コレラは明治時代に流行した伝染病では最も死亡率が高く、悪性のものは発病後わずか数時間で死亡するため、別名「コロリ」とも呼ばれた。埼玉県には十年、十二年、十九年、二十八年に流行した。そのうち越谷地方に蔓延したのは十二年のことである。三月二十二日愛媛県に発生し全国各地に拡大し、県下では七月に川口町に侵入したが、越ヶ谷宿には九月二十五日、大沢町には十月一日東京から伝播発生した。コレラ蔓延の原因は食物からと考えられ、県では「西瓜・真桑瓜・桃実・梨子・柿・蟹・シャコ・鮹・烏賊・海老」を発売禁止とし、人が多勢集まる芝居や寄席は当分禁止したりした。
各地にバラック建ての避病院がつくられ、警察官が患者を強制収容し、死亡すると警察官立会いで火葬に付され、家財道具も焼いた。このためか民衆の中には警察官を極度に憎む風が起り、各地で騒動が起きた。越ヶ谷地域の具体的状況は不明だが、県内では罹病者六三五人、うち死亡者三六六人で、死亡率は五〇%以上に達した。
十年、十二年のコレラ大流行を期に伝染病予防・衛生一般のことが国内各層で考えられるようになった。十二年には県に地方衛生会、十七年には連合町村部内に衛生会をおき、衛生委員を民撰させて防疫等衛生事情改善策について審議させた。ついで十九年十二月には県令で町村衛生組合規則を発布し、各町村に衛生組合を結成させ、衛生事情の向上を期せしめた。二十年上間久里連合衛生会で審議された事項には次のものがあった。
一、各自の家宅及び近傍の通路、下水、便所、芥溜箱の清潔維持、改良方法。
二、飲料水不良のものの禁止及び井戸側の腐朽するものや、井辺不潔、汚水潴溜する時の入れ換え方法。
三、種痘普及の方法、伝染病者ある時の注意予防方法。
四、貧困罹病者への薬餌供給法。