「郡村誌」上の越谷

165~168 / 1164ページ

以上みてきたような、明治十年代の越谷地域に展開された歴史は、以下述べるような地域生活のうえに展開されている。そこでまず生活展開の場の、生産諸情況についてみておこう。

 第44表は市域村々の、生産環境を表示したものである。区域はほぼ明治十七年の連合村に照応し、また二十二年以降の新村地域にもとづいたものである。一〇地区にわけられた市域村々全体に共通する性格は、運輸便利であるが薪炭に乏しく、かつ稲麦に適当な土地柄であるということである。このことは畑地も相当に有する水田地帯にして、民業も男女とも農を専らにする農業専業地帯であることと関連している。しかし、詳細にみればそれぞれの地域は特徴をもっている。

第44表 市域村々の生産環境(明治8年)
越ヶ谷・大沢地区 川柳地区 大相模地区 蒲生地区 出羽地区 荻島地区 大袋地区 桜井地区 新方地区 増林地区
戸数(寺社) 1,032戸(13) 146戸(8) 474戸(26) 422戸(16) 416戸(25) 400戸(22) 439戸(34) 396戸(25) 325戸(24) 611戸(28)
人口 4,876人 875人 2,774人 2,451人 2,492人 2,206人 2,488人 2,182人 1,952人 3,642人
1戸当り人員 4.7人 6.0人 5.9人 5.1人 6.0人 5.5人 5.7人 5.5人 6.0人 6.0人
地勢 元荒川・陸羽街道貫通し,運輸便利,薪炭乏し 古綾瀬川を帯ひ,運輸便利,薪炭乏し 元荒川を帯ひ,運輸便利,薪炭乏し 綾瀬川・陸羽街道貫通し,運輸便利,薪炭乏し 綾瀬川・元荒川を帯ひ運輸便利,薪炭乏し 元荒川・末田大用水貫き,運輸便利,薪炭乏し 元荒川・用水堀を帯ひ,運輸便利,薪炭乏し 四面平坦,運輸便利,薪炭乏し 古利根川・葛西用水を帯ひ運輸便利,薪炭乏し 元荒川・古利根川を帯ひ,運輸便利,薪炭乏し
田畑比率 田48:畑52 78:22 69:31 82:18 82:18 田68:畑32 53:47 49:51 61:36 33:67
1戸当り耕地面積 田16.1畝 73.7畝 78.9畝 58.8畝 109.9畝 田85.3畝 52.0畝 52.9畝 63.8畝 26.9畝
畑17.5畝 21.2畝 34.9畝 13.3畝 24.2畝 畑35.3畝 52.8畝 55.8畝 36.2畝 55.4畝
土壌 色 赤真土砂交り 色 赤黒混交す 赤黒土に砂を混し,その質下等 色 黒く黒土,真土 色 灰黒混し,埴土 色 赤黒真土その質中等 色 赤黒真土その質中等 色 赤黒,砂真土,その質中の下 色 赤黒,砂交り真土,その質中の下 色 赤真土,砂交り
生産上の特質 稲麦菜種に適応,桑茶不適 稲麦に適し蔬菜に不適 稲麦に適応 稲麦に適応 蓮根・稲麦に適応① 稲麦に適応し桑茶に不適 稲麦に適応,桑茶に不適 稲麦に適応 稲麦大豆に適応 稲麦蔬菜に適応綿大豆に不適
牛馬 0 10 21 2 21 26 38 18 14 10
舟車 川下小舟54 農舟36 耕作舟57,農舟1,肥舟1,川下小舟26,似〓舟3,渡舟1,水害予備車21小伝馬舟1,荷車19,人力車1 水害予備舟29,川下小舟32,似〓舟14,小伝馬舟11,高瀬舟4,人力車22,荷車89,農車2 水害予備舟72,川下小舟25,耕作舟14,荷舟7,荷車42,人力車4 耕作舟8 水害予備舟29耕作舟29,川下小舟8,漁舟1,荷車28,人力車11 水害予備舟66耕作舟27,渡舟2,荷車30,人力車14 水害予備舟45耕作舟10,農舟32,川下小舟75,渡舟1,肥舟2,荷車5 水害予備舟99,耕作舟175,川下小舟15,農舟19,渡舟2,高瀬舟2,荷車94,人力車9,農車19
荷車120 荷車1 小舟8
人力車104 荷車34
民業 農337戸,商340戸,工105戸,車稼177戸,魚業2戸 男女農を専とす 農専業
余業に莚叺②
農専業
兼商あり③
男女農耕を専とす 農専業
農間莚作り④
農専業
余業に莚・木綿織る⑤
男女農を専とす 男女農を専とす 農専業,商工兼業,綿晒あり

「武蔵国郡村誌」より作成。船は舟に統一した。 ①四丁野村,越巻村は例外 ②西方村 ③瓦曾根村 ④荻島村 ⑤大道・三野宮村


 運輸の便利さも河川、街道、用水路等のちがいによっては土壌や運搬手段に相違をもたらす。土壌は全般的に赤黒土が多いが、真土・黒土も蒲生、荻島、大袋地域にあり、これらの土質は中等である。これに対し、赤黒土に砂交りとなる大相模、桜井、新方などは中等の下あるいは下等となっている。このような地区の特色は、さらに地区内の村々によって相違を示すこともある。村の立地が河川沿いや、かつての沼辺ないし用水地帯では若干異なるからである。また、当然に舟や車にも相違があらわれる。深田にして水郷の越谷地方の村々は、耕作用田舟や水害予備舟が多く、それらはとくに大相模・出羽・桜井・増林地区に多い。耕作舟のほか「農舟」の表現もみられるが、同じ機能をもつものであろう。川下小舟はまた「川下稼小船」とも記されており、水郷の水路を自由に荷物を運搬する小型舟である。これらは越ヶ谷・大相模・蒲生・出羽・新方など川沿いの地域に多い。

 増林・新方・桜井・大相模には渡船もみられる。向畑村と松伏村間の渡船は、明治十一年当時、ひと一人・牛馬・人力車とも金四厘であり、千疋村と北葛飾郡木売村間の渡船は、明治十四年当時、一人当り金五厘(牛馬、人力車とも)であった。中島村と吉川村間の渡船は、明治十九年当時、一人当り金二厘である(越谷市史(五)二一五頁)。高瀬船も蒲生・増林にみられる。

 「運輸便利」の越谷地方の特質を、河川において担当するものがこれら舟であるとすれば、陸におけるそれは荷車であり人力車である。陸羽街道の通過する村々に車は多いが、とくにかつての宿駅の越ヶ谷・大沢地区と隣りの蒲生地区に多い。桜井地区では表示した八年当時の荷車三〇輛は、十九年には七八輛となる。この間、規模も中車であったものが大六・大七・大八車の各種が用いられるようになり、荷積馬車もあらわれている。十年代を通じ多様化し大型化するのである。

 このような荷車および舟の普及は、農具の普及とともに地域の労働生産性をたかめるのにあずかって力があったものと思われる。地方では肥舟による東京からの下肥の搬入や、北海道の鯡粕、銚子の干鰯などの金肥が導入され、土地生産性も向上する気運をむかえていたのである。一戸当り家族数をみると、町場の越ヶ谷・大沢地区で四・七人ともっとも少なく、川柳・出羽・新方・増林などは六人である。全体的な家族構成は不明であるが、平均的には夫婦を中心とした単婚小家族である。個別的には伯父・叔母ないし厄介などと称する傍系親族をふくむ大家族もみられ、また、祖父母・夫婦・子供など三代にわたる家族の場合も多い。このような家族における稼働人口は四人ぐらいが平均的であったと思われる。

 一戸当り耕地面積は、出羽地区がもっとも多く(一町三反四畝歩)、越ヶ谷・大沢地区に少ないのであるが、市域村々全体としては平均値は水田五三・八畝、畑三四畝で、あわせて約八反八畝歩である。以上の検討を通じて描かれる市域村々の、十年代における平均的な農家像は、四人の働き手を中心とする五~六人家族の、ほぼ八反八畝歩の耕地を所有し、荷車をもち、牛馬・舟のいずれかを併用する農家ということになる。