生活の困窮

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平均規模の農家の収支上の特色が、右のような状況であるとすれば、平均以下の農家はもちろん、平均以上の農家においても、農業以外の兼業収入にますます依存しなければならなくなる。この村の兼業農家は一五三戸、その業種は十九年当時四四種で、これに一一一戸がたずさわっていた。したがってこの年には四二戸(みな職人)が増加している。この一人平均の営業高は八〇円余である。農産収入に比較し、兼業収入の比率のよいことがわかろう。

 だが、この営業も資本力のある場合であり、平均以下の零細な余業や職人層の収入はさらに減少する。くわえて、明治十七年以来の不景気や、二十三年の水害は市域の人びとにも大きな影響を与えている。明治十七・八年ごろ、デフレによる不景気の情況のもとで、市域村々の惨状は、県内では軽微であったと報告されているが、それはあくまで県内の他の郡との比較上のことであり、「中以下の細民に注目すれば、其惨況殆んど見るに忍びざるもの」(「郵便報知新聞」一八年七月十日付)があったという。大間野村では小作争議が発生し、増林村では七〇余名の村びとが、積立ててきた凶荒予備金の払戻しを請求した裁判事件がおきている。ほかの村々も騒然とした空気に包まれていたようである。

 明治二十三年には再び不景気にみまわれているが、この時の惨状についてみれば、第47表のようになる。全村のうちの二八%にあたる一一八戸の六四七人が貧窮として報告されている。

第47表 上間久里(桜井)村の惨状(明治23年)
総戸数 429戸
貧困者 農業 82戸 463人 去年暴風,米作被害,小作人ニテ資力乏シ
商業 13戸 79人 米価騰貴,商勢不振,不融通
工業 15戸 67人 不景気,製造品購求者ナク閑散
雑業 8戸 38人 湯屋,人力車,日雇,荷車引ノ雇ウモノナシ
合計 118戸 647人

 その理由は、農業の場合、所有地少なくかつ暴風による米作被害と麦作の不振により食物がなくなり、農閑期に日雇、賃機、藁細工などをおこなうが不景気のため賃金が少なく、そのうえ米価騰貴によりその賃金では食料を購入できず、衣類・道具などをきり売りする農家である。商業も不景気のためふるわず、物品がさばけないため不融通となり、ますます貧困化するものである。このような不景気は、工業者や人力車稼、日雇層をも困窮化させる原因となっている。恐慌の到来であった。