勤勉貯蓄組合の設立

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このような深刻化した不況ののりきり策は、もっぱら町村におしつけられることになった。不況のための積金は、かつて小菅県の報恩社金として、また浦和県では会所積金制度として、埼玉県でも〓育金・民務準備金などとして運用されていた。

 これらの資金は、郡制施行以来、連合町村会で運用が審議されていたことは前に述べたとおりである。村びと自身が出金し、自己の災害補償ないし生産費として運用していたのである。だが、この資金も充分に役立っていなかったことは、不景気のさなかに増林村で訴訟がおこったことでも明らかである。そこで十七年より各村では行政的に籾を買上げて積蓄することが始まっている。凶荒時の施米をするためである。これらは、十八年には大沢町に「儲穀所」が設けられて集積されている。

 このような救恤体制をとるだけでは、村びとたちの貧困化をくいとめることには充分でなかったため、県では十八年十一月に、各村へ勤勉貯蓄組合を設けるよう布達した。市域村々では二十年代にはいっても、出羽村と増林・川柳村の一部に行われたのみで、ほかの村々は「嫌厭」する状況であったという。

 もっとも早く、十九年四月より準備された谷中連合村々の、「谷中村連合勤勉貯蓄組合規約」(越谷市史(五)二二六頁)によれば、この組合は「平素節倹ヲ行ヒ、業務ニ勉励シ、其余力ニ生スルモノ蓄積シ、幸福ヲ永遠ニ保全」することを目的とした。連合六ヵ村をまとめて一組合とし、村内に居住するものすべてを組合員とする、行政的な勤勉体制をつくろうとしたのである。

 年間の休日と平日の労働時間をきめ、冠婚・子孫祝には模様衣または振袖を用いないこと、祝いごとには親戚と向三軒両隣り以外は招待せず、しかも節倹することなどが細かくきめられている。そのほか葬祭、神仏祭礼、神仏勧化、参詣なども節約をきめ、頼母子講の廃止や貧窮人へは組合内で救助することなども決めていた。県による強制でありながら、村びとの自主性において倹約し、勤勉につとめることによって蓄積し、貧窮人へは村々の自力で救助する体制をとらせたのである。

 かつて自由民権運動のさかんなりしとき、貧民救助論は重要な論点であった。高額の租税を人民より徴収する以上は、国家が公的に救助すべきであるという民権派と、もっぱら共同体的な村内の慈善に転嫁し、国家の責任をかえりみない政府とはあい対立していたが、十七年以降、民権運動の衰退とともに、近代的な公的扶助論はカゲをひそめ、かわって村々の負担に転じられてくるのである。