生活慣習の変化

172~174 / 1164ページ

このような勤勉貯蓄の要請は、労賃を無償としなければ利益を生み出しえないという村々の生活の、さらなる切りつめを要求することになる。とくにそれは不況下において強調されよう。とはいえ、時代の趨勢は確実に生活環境に変化をもたらす一方、封建的な遺風も依然として根づよく、過去にきずかれてきた生活上のもろもろの慣習は、なかなか近代化されていないのがこの時期の特色であった。

 当時、日本でもっともおくれていた東北地方でも、幕末の麻衣は、維新後、しだいに綿服となり、明治十四、五年には綿服が普通になったといわれている。綿産地でかつ綿織地でもある市域村々が綿服となるのは、江戸時代も早い時期であったろう。当時はすでに絹も用いられ、村々でも一般化していたと思われる。谷中連合村で節倹の対象となった模様衣や振袖も一般化しており、村々に太物・小間物の小売業者を生み出す情況となっていた。食料は全国的にも、幕末より明治十九年ころにかけて、徐々に米食をするものが多くなっており、食物への米の混入の割合も、明治十二年当時は米五三、麦二七、雑穀一四、甘藷五、その他一の比率となっている。埼玉県ではこの当時、米に麦・粟・稗が混入されている。混合の割合は各農家の資力によって、当然ちがったであろう。

 市域村々の様子も、民俗調査によっては米と麦の比率は七対三、または半々、ないしは四対六とされている(「越谷市民俗資料」二五頁以下)。話者の年令は明治後半に生まれた方と思われるので、このような状況は明治末より大正期にかけての、市域における現実であったろう。明治初期は混入の比率は、米がさらに少なかったと思われる。まして不況下や節倹が行われると、その比率は下るはずであった。住では上間久里連合村々の、明治十九年当時の、一戸当り平均坪数は二二坪である。徐々にではあるが、生活における衣食住は向上しつつあったことは間違いない。

 このような生活の向上が、ただちに生活慣習を変えるまでにはいたっていない。政府は文明開化により欧米諸国においつくため、はやく日本文化を向上させようとつとめ、古来の無益な慣習の廃止を、政策によっておしすすめていた。埼玉県でもいろいろな布達を通じて、改良を試みているが、なかなか変わるものではなかった。「あさやま躍り」と称する狐つき同様の躍りについては早くから禁じたが、明治八年には各村の湯屋稼業のものより男女混浴をさせない旨の請書をとり、九年には「唄祭文読」の廻村を禁じている。十年には髪結や紺屋稼などの「渡り職人」を禁じ、十一年には「万歳」または「厄払」などを禁じた。

 十二年にはコレラ流行によって、県下の村々では神だのみが流行した。「悪病除」と唱えて炎天下を神輿をかついで洒をのみ歩く風習もみられたし、また厄除けのための富士詣・大山詣・御嶽詣が流行している。これらは病源菌をまきちらす心配もあって禁止されている。流行病によって飲料水や菓子類をはじめとする食物、便所などの改良も注意されるようになっている。なお、当時の家庭の常備薬は、もっぱら富山の薬にたよっている。第48表は明治十九年当時、上間久里連合村々へ配布されていた薬と業者の一覧表である。どこの家にも備えられたものではないようであるが、実際には表示した人数より多い。たまたま調査した時点で使用しきってしまっていた人びとも何人かいる。退虫丸とは現在の虫くだしであろうが、実母散・救命丸などは現在でも用いられている名称である。いずれも越中の富山・滑川・水橋の商人が廻村して薬をおいていったようである。

第48表 明治19年上間久里連合村民の常備薬
村名 戸数 薬所持人 種類 業者
上間久里村 51 1 実母散,退虫丸,犀角円,熊胆丸,妙神丸 5 越中水橋 石黒七次
下  〃 51
大泊村 50 5 万金丹,救命丸,妙ふり出し 5 越中富山 精寿堂
大里村 46 実母散,むしおさへ,一角丸,宝丹丸,万金丹,妙神丸赤玉,妙ふり出し,熊胆円,竜神湯 〃 〃  広貫堂
〃 〃  根声堂
平方村 179 20 147 〃 滑川 保寿堂
〃 水橋 配薬舎

 これらは単に布達として出されただけではなく、村々では村法として申合わされる場合もあった。谷中連合村での頼母子講の廃止のように、日待講、三峰講、念仏講などの廃止や、家作普請の上棟の場合の投げ餅や撒き銭、草競馬や若者の夜遊びなど、村びとたちで自粛する場合もあった。当時は暦も太陽暦がいまだ行われておらず、明治二十年には一般の風俗は、すべて太陽暦によるよう布達されているが、「月送り正月」の風習も容易に改まっていない。桜井村では三十年になって、村びとたちに太れ陽暦によるよう申渡している(越谷市史(五)二三二頁)が、ほかの村々でも同様な状況にあったと思われる。