このような新町村制の施行によって、十一年の郡区町村編制法以来江戸時代からの村落が復活し、自然村として公認されてきた体制を否定することになった。十七年以降、連合戸長役場の体制となり、その区域は数ヵ村が合併された連合村として、共同歩調をとることになっていたから、個別町村の行政機能はこれら連合村に統一されるようになってはいたのである。
政府は新町村制の実施にあたり、自然村たる生活共同体としての部落を分合処分することをきめて府県知事に通達した。独立のできない貧弱な町村は合併させることにしたが、合併町村の広狭大小は、おおよそ戸数三〇〇より五〇〇までとし、なるべく従来の戸長役場の区域によって新町村の区画をきめるようにしている。新町村が行政機関化することにより、町村費も行政費としての性格をつよめ、地方税をふくめて、行政機関費を捻出するための負担可能な町村規模をつくる点に主眼がおかれたのである。江戸時代以来他町村に有する飛地を整理することも考えられていた。こうして明治二十二年には七万余の旧町村(共同体的な自然村)は、一万余の新町村(=行政村)に吸収合併され、旧町村は新町村の大字として名をとどめた。
越谷地域の新町村の編成の事情をみれば、次のようになる。
旧町村 | 新町村 | 戸数 | 人口 |
---|---|---|---|
麦塚、伊原、南青柳、柿木 | 川柳村 | 四四五戸 | 二八八二人(村長 深井七郎兵衛) |
見田方、千疋、別府、四条、南百、東方、西方 | 大相模村 | 四九三戸 | 三一六三人(村長 鈴木仁太郎) |
登戸、蒲生、瓦曾根 | 蒲生村 | 四四九戸 | 二五六〇人(村長 中野柳助) |
谷中、大間野、七右衛門 越巻、四丁野、神明下 | 出羽村 | 四三五戸 | 二七八四人(村長 井出庸造) |
増林、増森、中島、花田、東小林 | 増林村 | 六一九戸 | 三九五一人(村長 榎本建蔵) |
北川崎、大吉、向畑、大松 大杉、弥十郎、船渡 | 新方村 | 三二四戸 | 二一七九人(村長 鈴木初右衛門) |
上間久里、大里、下間久里、大泊、平方 | 桜井村 | 三九三戸 | 二四七二人(村長 白鳥忠次郎) |
恩間、大竹、大道、恩間新田、三野宮、袋山、大林、大房 | 大袋村 | 四三七戸 | 二八四五人(村長 渡辺幸太郎) |
砂原、小曾川、野島、南荻島、北後谷、長島、西新井 | 荻島村 | 四一七戸 | 二五三〇人(村長 川上治郎右衛門) |
越ヶ谷、大沢 | 越ヶ谷・大沢町組合 | 一〇四〇戸(町長 島根荘三) |
これを第一節の第24表と比較すれば明らかなように、新町村の編成は、明治十七年当時の連合戸長役場の区域と大差ないことがわかる。市域村々でも政府の方針が守られていたのである。ただし、東小林、花田がかつての北川崎連合よりぬけて増林村に合併している。したがって、合併の理由は二つあることになる。連合戸長役場の区域をそのままうけついだ新町村は、当然それはかつての「戸長役場所轄区域タリ、地形民情ニ故障ナキハ勿論、交通至便ナルヲ以テ、其儘一村ヲ造成」(越谷市史(五)三九三頁)したとされる。十七年以来の体験がそのまま新町村編成の要素となったのである。他の一つは増林村の場合で、「増林・増森・中島ハ現今戸長役場所轄区タリ、東小林・花田ヲ合併セシハ、地形人情ノ適合セルヲ以テナリ」とされている。新しく合併された東小林・花田は、地形が隣接し人情が似ていることが理由であった。これによって、方針として示された戸数規模の五〇〇戸を、はるかに越える六一九戸の大村となっている。