越ヶ谷・大沢町組合の設立

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市域村々の合併において、問題がこじれたために、ついに合併にいたらなかったのが越ヶ谷・大沢町の場合である。合併問題をめぐる大沢町の町会議員の多数と、連合戸長の基本的な立場は次のようなものであった(越谷市史(五)四〇四頁)。

     町村制ノ義ニ付合併可否上申

  越ヶ谷ノ名義ヲ存シ、大沢町ノ名称ヲ廃スルハ不服ニ御座候。如何トナレハ、当時越ヶ谷ハ戸数多クシテ有資力ノ地、大沢町ハ戸数少クシテ無資力ノ地、合併シテ越ヶ谷ノ名義ヲ存在セハ、其人民ハ気ニ乗シ、大沢町人民ヲ奴隷ノ如ク取扱フヘク、因テ役場及学校ノ位置モ越ヶ谷ナルヘシ。町費ハ略其土地ニ消費スルモノナレハ越ヶ谷ニ利益アリ。大沢町ハ割賦ヲ出金スル而已ニテ利益ナシ。依之、合併シテ反テ困難ト思考仕候也。

新しい町名を「越ヶ谷」とすれば、本来、両町の資力の差にくわえて気質上の差を生じ、役場・学校も越ヶ谷に建設される結果、大沢町は町名を廃されたうえに町費は出すのみで恩恵に浴さないことになるというのである。そこで、大房村でも大袋村合併派と大沢町合併派に二分されているので、「多年ノ修好」ある大房村を大沢町に合併させ、そのうえで越ヶ谷宿と合併すれば、中央の大沢町を中核とする有力な新町となることが考えられていた。

 このような大沢町の越ヶ谷宿に対する意見の相違は、単なる感情論ではなく、長年の利害の不一致があったからのようである。江戸時代から宿場として制度上は一致しながらも、人馬輸送をめぐって争いがあったようであるし、安政六年(一八五九)、文久二年(一八六二)の元荒川の洪水に際しても、水害予防をめぐって争い、渇水時には末田須賀用水をめぐって引用競争が行われたことなどが、合併反対の背景になっている。

 これに対し、越ヶ谷宿も合併について、協議はなかなか一致しなかったようであるが、一宿のみでは独自の負担資力に乏しいところから、合併を承諾することにしている。しかし、新町名を大沢町の主張するごとく「大沢町」とすることには反対であった。理由は、往古において越ヶ谷が最初に成立したこと、越ヶ谷御殿などの旧跡や越ヶ谷領として数ヵ村の親村でもあるという事情、それにくわえて商業上の慣行も「越ヶ谷大沢町」であることなどから、衆目の一致するところ「越ヶ谷」名が著名であるというのである。

 このように主張する越ヶ谷宿も、一宿で独立し、独自で町村財政を維持する能力に乏しいことが最大の弱点であった。一宿のみで町村費を負担すれば、従来とても七二二円余の赤字を生じ、これを宿民への戸数割、人口割で徴収して補充していたものが、新町村制で花田・四丁野・神明下の三村にある越ヶ谷宿の飛地が整理されて消滅する結果、課すべき土地の財源が少なくなり、赤字額が一〇〇〇円余にも達するからである。そこで越ヶ谷宿の町会議員・惣代人は県知事にあて、花田・四丁野・神明下の旧三村と合併して新町とするか、もしそれが不可能ならば、旧谷中連合村と合併したい旨を請願した。旧三ヵ村との合併にしろ、谷中連合村にしろ、いずれの場合もが旧越ヶ谷領の村々であったから、合併しても「越ヶ谷」町の名称を名のりうると判断したのであろう。

 このような合併をめぐる争いは、結局、県の裁定により次のように決定されている。両町の紛争は百年の大計を忘却するものとして、双方の意見を不採用とする。かわって、越ヶ谷宿は「越ヶ谷町」として一町が独立し、大沢町は大房村と合併して独立し、それぞれ自立した二町の組合町とすべく指示されている。(ただし大房村と大沢町の合併は実現しなかった)