政治上のことを言えば、二十年代初頭は明治二十二年二月の帝国憲法発布、同四月市制町村制の実施、二十三年五月府県制の公布、同十一月の帝国議会の開設と、近代的政治体制の確立する画期であった。経済的には、日清戦争から日露戦争にかけての、産業革命の展開による日本資本主義の確立にともなって、農業政策も基本的に異なってくる時期である。その意味で、明治三十二年の府県農事試験場国庫補助法・農会法・耕地整理法と、三十三年の産業組合法の発布は、その農政変化の画期になっている。したがって、地方の農業に対する政策も、明治前期から新しい農政が展開する三十年代にかけての移行期である明治二十年代と、新しい農政が具体的に展開される三十年代以降とに区分して考えることができよう。
明治二十年代の農業は、政府の殖産興業による勧農政策としての上からの指導奨励と、農村内部より成長する農業変革への意欲との合流が試みられる時期である。明治十年代後半より各地に農談会、勧業諮問会などが設けられ、豪農層のなかから篤農家としての老農が民間技術者として起用されてゆく。これらのなかから中村直三、船津伝次平、奈良専二(のちに林遠里)らが有名となって、明治の三老農と称されるようになった。埼玉県でも林遠里を招き、米作改良法の指導をうけている。すなわち明治二十三年四月には南埼玉郡で指導が行われ、岩槻町浄安寺で耕鋤法講演、および同町村田某所有田での耕鋤法実施の講習が行われた。
このような農村内よりもり上がる改良への努力も、その後農村における変革の志向をもつ豪農層が、農業の現実的な生産より遊離しはじめて地主化し、後退してゆくのである。明治三十年代になると、これら地主層を中心とする農会活動によって「中産保護」、つまり自作農の没落の危機を食いとめるための努力がはらわれるようになる。資本主義の確立による、農村への貨幣経済の浸透に対応しようとするのである。西洋農学の輸入によってはぐくまれた政府の技術的指導力は、この時期より発揮されてゆく。ちょうどこの頃より農事改良に対する官僚的な指導の必要が強まり、農政遂行の補助機関として農会が利用されるのである。日露戦争後はとくに警察権による直接的な強制が行われ、上からの農事奨励が積極化する時期である。苗代の改良、牛馬耕の奨励、耕地整理などは四十年代の市域村々で大きな問題となっていた。