巡回教師の始まり

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まず明治二十年代の農政について、市域村々の史料より考えてみよう。政府は農商務省設置以来、各地の実態を調査し、「興業意見」としてその結果を発表したが、そのなかで耕種指導に関しては、府県に勧業諮問会を、町村ないし連合町村に農事会を設立すること、農事巡回教師の制度を設けること、罰則をともなう害虫駆除規則を発布すること、米質の粗悪化を防ぐため米穀商に同業組合を設けさせること、農事試験所、農産物陳列所の設立などが建議されていた。のちに実現されるこれら方針は、実施過程を通じて従来の放任主義より干渉主義による農事奨励が行われるようになっている。

 このような方向は、埼玉県の農業指導にも反映していく。明治二十年前後から各町村に成立していた農談会などを統轄する意味で、二十三、四年頃には郡農談会が組織され、二十四年四月には南埼玉郡では岩槻町芳林寺に農談会が開かれ、その後ひき続き、第一回の郡勧業会が開設されている。米作改良がこの会の主要な課題となっていた。この郡レベルでの組織とともに、前述の如き林遠里一門の唱えた米作改良法の普及がはかられている。南埼玉郡では、明治二十三年一月以来、林遠里の米作改良法教師として福岡県人吉住又三郎が、一月十七日に蒲生村瓦曾根中村信太郎所有田のほか、岩槻町、江面村の三ヵ所で実地指導している。このほか、明治十九年県布達の同業組合準則により郡内穀物商人を組織し、「南埼玉穀物改良組合」(越谷市史(五)五五頁)の組織化が計画されている。これは「米質ノ不良、製造ノ粗悪、不乾燥ノ米粒ヲ改良スルヲ以テ目的」としたものであった。また稲作試験田を設定し、その成績報告を収録した印刷物を配布して、相互の知識交換をはかった。しかし、これら稲作改良の努力はさほど効果をあげないうちに、間もなく立ち消えとなっている。

 明治二十五年からの郡役所の布達をみると、他県産の作物品種の試作希望者への種子配布、茶業改良法伝習生の募集、藍作および製藍改良教師の巡回とその伝習希望者の募集などが行われる。製茶改良教師の巡回による講話会が開かれる一方、河合村に製茶改良伝習所が設置され、観覧希望者を募っている(二十九年には郡下六ヵ所に設置)。また熊谷町精業舎での養蚕飼育伝習生の募集や農商務省試験場蚕業伝習生の募集が行われている。

 明治二十七年三月の越ヶ谷町天嶽寺における稲作および茶樹改良講話会、同じく八月の越ヶ谷町の農事試験所技師による講話会、二十八年五月、同試験所技師による越ヶ谷町の藍業講話会、二十九年二月、徳島県人笠井与惣平による武里村・増林村における藍業改良講話会ならびに実地指導、同三月、越ヶ谷町天嶽寺の農事試験所技師による稲作改良および農事諸般の巡回講話会など、県の嘱託の巡回教師による講話会も開かれていた。