勧業博覧会

184~186 / 1164ページ

以上のように巡回教師の講話会や伝習生による農業教育、農業印刷物の配布などによる農業の改良をはかるほか、明治十年代より行われていた共進会や品評会も積極的に開かれている。これらは農村内部の動きをとりあげて、民業改良の新しい流れを準備するための手段として不可欠のものであった。

 すでに政府は、明治十年に実業の奨励、生産の振作を主とし国家富強の源を培養する目的で、内国勧業博覧会を上野公園に開いていた。明治十四年より二十一年まで八年間に開かれた農作物関係の大小博覧会および共進会は全国で九四二回にのぼり、出品点数は二七八万点余、出品者五五万人余、観覧人は五七九万人余に達した。これらの中心を占めたものが、米・繭糸に関するものであったことは言うまでもない。内国勧業博覧会は明治十四年に第二回が開かれ、第三回は二十三年に開かれている。第二回博覧会の開催ののち、浅草本願寺に全国の老農一二〇名が会し全国農談会が開かれ、このときの勧告にもとづいて府県における農談会、農事会、勧業諮問会は活発となっていった。

 第三回は博覧会出員割り当てと、盛んとなった地方産業の知識交換もあって、全国各地から出品が勧誘されている。このときの市域町村よりの出品をみると、第49表のようになっている。また、第一回内国勧業博覧会には、越ヶ谷町の会田銀之助が偶人(人形)を出品して、「花紋賞」を受け(写真参照)、第三回の博覧会では、生木綿を出品した大沢町の疋野豊吉が、地質佳良、価値稍廉とて褒状を受けている。市域が水田地帯であることを反映し、総計七五点のうち米三二点、糯一〇点と過半数が米である。前二回の博覧会に比較し、米の出品が多く、しかも二十年前後の各地の米穀改良の風潮を反映して、「改良ノ二字ハ宛モ米ノ形容詞ノ如」く改良米の出品がなされている。この改良米は、国内用には中粒で溝浅く形状長円、その質堅硬かつ甘味があり粘力に富み色沢のよいものが尊ばれたが、それらには信州、関取、近江、巾着、荒木、石白などの稲種のものであったという。外国用には大粒にして形状豊肥、その量重く色沢のよいもので白玉、高砂、都、栄吾などが適していた。埼玉県よりの出品米は近江・荒木などが多かったが、色沢が美しくなく、いたずらに磨拭して色沢を加えたものが多かったという。このとき観覧した出羽村の島村東太郎は博覧会の景況を、「陳屋ノ高宏ナル堂宇ノ燦潔ナル規模宏濶」、「館内ニハ帝国珍宝奇品苟モ帝国ノ器具タルモノ悉ク館内ニ陳列シ公集ノ洽覧ニ供セリ」(越谷市史(六)二〇三頁)と述べている。

第49表 内国勧業博覧会(第三回)越谷地域出品表
品目 大麦 小麦 裸麦 大豆 小豆 草鞋 実綿 木綿 葉煙草 その他
町村名
川柳村 2 1 1 1 1 1 2 1 1 1 1
蒲生村 3 1 1
大相模村 2 1 1
出羽村 1 1
荻島村 2 1 1
大袋村 7 1
越ヶ谷町 1 雲斎織1
晒縞木綿1
大沢町 2 1 1 1 1
増林村 6 4 1 1 1
新方村 4 1 1 2
桜井村 2 1 1 桐薬箱1

「明治前期産業発達史資料」勧業博覧会資料 129.134

第1回内国博覧会花紋賞(越ヶ谷偶人)