反当り収穫量の推移

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農村の盛衰は農業生産力に大きく影響される。埼玉県東部低湿地帯の一角を占める越谷地域も古くから地理的生産的環境と無縁ではない。この地域に農業生産力増大のための農業技術がどのように展開されたかは、是非とも明らかにされねばならないであろう。ところで農業技術といってもいくつかの側面をもっている。作物栽培技術としての品種改良、肥料技術の進歩、農具の発達、耕種法の改良などのほか、果樹、野菜の栽培技術や病虫害予防の問題、養蚕技術、耕地整理技術などさまざまである。ここでは、史料で明らかにしうるいくつかの点についてふれておこう。

 まず最初に反当収量の変化についてみておきたい。明治十六年以降四十五年までを一〇年毎に三期にわけて全国的な傾向をみると(山田勝次郎「米と繭の経済構造」)、反当収量は各期ごとに確実に増加するが、その場合、増加の割合の高い西日本の各府県に対し、東日本の各県は漸増にすぎないという違いがある。漸増する東日本の県にあっても埼玉県は第一期(明治十六~二十五年)の平均反当収量一石三斗五合(全国平均一・三五五石)に対し、第二期(明治二十六~三十五年)は一石二斗六升(同一・四二八石)と下がり、第三期(明治三十六~四十五年)で一石三斗一升六合(同一・六五七石)に復活する県である。全国平均値と比較すると埼玉県は最初から平均以下に位置し、しかも明治期を通じてその差が拡大する県である。停滞的性格を示す県の一つなのである。

 そこで市域村々の場合についてみれば、上の図のようになる。桜井村の場合をみると、明治二十四年の二石をピークとして比較的反当収量の多いそれ以前と、最低八斗にまで落ちこむそれ以後とにわけることができる。明治四十年代には回復するものの、三十年代は三十五年を谷間として全般的に減収が固定化している傾向がわかる。村全体であるためか、反当収量は非常に低く示されているが、大体の傾向をよみとることができよう。この傾向は埼玉県全体の停滞的性格に通ずるものである。個人の場合をみても、蒲生村大熊家では明治二十六年をピークとして高反収のそれ以前と、減少傾向をみるそれ以降にわけられる。これも四十年代に入ると復活する趨勢にある。深野家は明治三十四年以降のみであるが、三十五年を谷間として漸次反収の増加していく傾向がよくあらわれている。

明治期の反当収量

 大熊家も深野家も村内では高い生産力を保持する有力農家であるうえ、資料が自家の手控えであるため高い現実の収量が示されている。役所へ提出する村内全体の平均収量は桜井村のごとくもっと少なくなるはずであった。ここでは申告資料ではない私的な資料にあらわれた収穫量の推移も、明治後半期は村や県と同様に停滞的性格を示すことがわかるのである。

 このような市域の傾向を平均反収の傾向線を描いて全国のそれ(表示)と対比すれば、特徴はより明確となる。漸増してゆく全国の反当収量に対し、市域村々では明治二十七年頃より四十年頃まで減収より復活へのスリ鉢状の曲線を描くことになる。この時期は市域において農業上の大きな転機であった。このうち明治三十年、三十三年、三十五年、三十七年は暴風雨、三十八年は気候不順などによる減収であったようである。