このような情況下で、市域村々の作物品種、なかでも稲作品種がどのように変化していったか、具体的には明らかでない。桜井村の稲作品種の調査によれば、明治二十五年当時収穫最も多量なる稲種は「穂揃源蔵」(反当二石)で、もっとも播種反別も多くまた好評を博していたものには「入早稲」(反当一石八斗)があったという。
明治三十一年の報告によれば、移出用の重要品種は「カラス早稲」(反当一石八斗)、「入源蔵」(反当一石六斗)、「晩稲カラス」(反当二石)であるという(越谷市史(五)七二頁)。これらの反収は三十年にはそれぞれ二石、一石八斗、二石である。入源蔵は良質米で、三十二年には反収二石をあげ、カラス米は質は下等であるが、二石二斗の反収をあげている。生産純益金もしたがって高い。これは第50表のようになっている。
入源蔵 | カラス米 | |
---|---|---|
品質良否 | 良 | 否 |
反当収量 | 2石 | 2石2斗 |
価格(1石ニ付) | 10円 | 11円 |
肥料種類 | 〆粕 | 〆粕 |
肥料代価 | 8円 | 11円 |
地租 | 1円80銭 | 1円85銭 |
地方税 | 55銭 | 57銭 |
村税 | 30銭 | 31銭 |
その他諸費 | 5円50銭 | 6円10銭 |
純益金 | 3円85銭 | 4円15銭5厘 |
明治32年「庶学土勧発議書類」参照
他の研究でも明らかなように、このカラス・源蔵は幕末から明治にかけて越谷地方の稲種の主流であった。三十一、二年当時、各町村の重要稲作品種が調査されているが、この時期の埼玉県の主要稲種は、関取、近江、荒木、吉川、千本、白目、晩源蔵、〆張、大和、雀早稲であった(「日本農業発達史」二巻三二八頁)。
一般に品種の選択は、栽培の難易、収量の多少、米質などがその基準になるという。カラス・源蔵などは市域村々において、これら基準を満足させるものであったのであろう。しかし三十年代には農会も成立し、農事試験場も設置されて統一的な品種が勧奨されるようになる。後述のごとく、三十三年よりはじまる稲模範作共進会では、出品稲種に関取、近江、荒木などが指定されており、やがて愛国(静岡県産)、亀ノ尾(山形県産)などが指定され、作付けされるようになっていった。明治四十三年当時の埼玉県の奨励品種は、早稲では上州・四十日・虎ノ尾、中稲(なかて)では多摩錦・天笠・都賀錦、晩稲では万作・勧業坊主・金砂糯などであった(「日本農業発達史」五巻七三三頁)。これら数種は市域村々でも作付けされている。