天災と稲種

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幕末期より明治二十年代までほぼ順調に伸びてきた水稲生産力は、明治三十年代にはいると相次ぐ天災の被害で低落する。とくにこの傾向は晩稲に強く表われていた。そのため県では、早稲・中稲を奨励するようになり、とくに四十年代には積極的に勧奨した。四十年頃には郡内の晩稲の割合は三四・六%にも達し、改良が叫ばれている。桜井村の変化を第51表でみると、圧倒的に中・晩稲の作付の多かった明治十年代から、二十五年には早稲作付の比率も増して二割となり、四十三年には約三割に達する。この年晩稲は逆に二割となり、奨励された早・中稲のみで八割に達していた。この傾向は郡下全体のものであったから、郡役所では「漸次中稲ノ良種ヲ栽培スルモノ多キニ至リタルハ洵(まこと)ニ喜ブベキ義」(明治四十五年「勧業発収書類」)としていた。導入された関取・愛国などは中稲種であった。

第51表 桜井村早・中・晩稲作付反別変化
作付早稲中稲晩稲比率
年次早稲中稲晩稲
反 畝歩反 畝歩反 畝歩
明治1965.51,252.71,240.62.54948.5
〃 25512.1,020.1,027.3204040
〃 43770.1,283.514305020
〃 45641.1,046.898254035

各年次「勧業発議」「収受書類」参照

 しかし桜井村の明治四十五年作付反別で、早稲の比率が伸びなやみ、依然として晩稲の割合が高いように、旧来の晩稲への愛着は捨てがたいものがあったようである。これは単に旧来の慣習ということではなく、早稲は収量少なく晩稲が多収性であるという稲種の性格とも関連していたのである。市域村々にあっては、明治期を通じて試作、新品種の導入が行われながらも、「カラス」「源蔵」の粳米稲のほか、糯米種は「太郎兵衛」が作付の基調となっていた。