肥料の変化

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これら品種の生育に必要不可欠のものに肥料がある。明治前期にはすでに化学肥料も輸入されていたが、いまだ実験研究段階であり、村々ではもっぱら下肥・草などの自給肥料のほか、魚肥を主とする金肥に依存していた。すでに第三章第四節で述べたように、明治十年代には市域村々へも北海道の鯡〆粕が導入され、千葉県からの鰯〆粕・干鰯などとともに大豆・蚕豆などの自給肥料が用いられていたのである。

 このような傾向を個人の農業経営からみると、蒲生村大熊家の場合、明治十年代には魚肥の〆粕のほか飴粕、下肥(ごえ)が多用されたが、明治二十年代にはいると、これらのほか干鰯・えび粕・田作粕・するめ粕などの水産肥料も用いられるようになる。しかし明治三十年代まで施肥の中心は、下肥、〆粕、飴粕であった(「籾種及肥料扣帳」大熊家文書)。桜井村深野家の場合、明治三十年代後半には糠のほか下肥・大豆粕・蚕豆などの自給肥料が主に用いられ、四十年代には下肥・大豆粕のほか過燐酸が用いられてくる(明治三十四年「農業日誌」深野家文書)。これらは市域村々の一般的な傾向であったと思われる。

 明治二十七年の肥料調査によれば桜井村では、主たる購入肥料は鯡〆粕鰮〆粕であり、これらは越ヶ谷町・粕壁町の肥料商人より、購入時に四分、残りの六分は延払いとする方法によって仕入れており、一反当りの平均施肥量は二斗であったとされている。三十四年桜井村内の肥料商調査によれば、六人が「白米糠」なるものを自家生産し販売しているが、このほか取次商では鰊(にしん)粕、鰯粕、大豆粕などを商っていた。白米糠とは「玄米ヲ搗キ其細皮ガ即チ粉糠トナル」(明治三十四年「起廃業収受編」)ものであるという。しかしこれら肥料小売商はそのまま継続的に営業はされず、四十三年には第52表のごとき二人によって卸売、生産販売が行われていた。

第52表 桜井村肥料販売表(明治43年)
肥料商 吉岡吉兵衛 小川神次郎
種別 販売量 販売金高 販売量 販売金高
貫目 貫目
米糠 140 13 100 9.5
鰊〆粕 575 253 575 253
鰯〆粕
大豆粕 770 155 1,400 260
アルカリ 300 30 500 50

明治44年「起廃業収受書類」参照

 この間、全国的にみれば明治十・二十年代の魚肥全盛期より、三十年代には価格の低廉さから大豆粕が魚肥に匹敵するまでに多用されるようになっている。しかし日露戦争によって豆粕の輸入が一時途絶したため、南埼玉郡では緑肥普及の急務が説かれ、四十年代にはいると「紫雲英」(レンゲ草または田ブドウ)が栽培されはじめる。明治四十五年、桜井村の紫雲英は水田一〇町歩に栽培されている。

 このような大豆粕、緑肥に加えて、三十年代より燐酸肥料、硫安、硝酸曹達などが多量に輸入され、また国内で製造も行われて各地に供給されるに至っている。これら化学肥料が市域村々で用いられてくるのは、明治四十年代にはいってからである。桜井信用販売購買組合で硫酸アンモニア、強過燐酸、加里などの化学肥料の共同配合が行われるのは大正元年であった(越谷市史(五)八〇頁)。荻島村農会でも翌年には実施している。このような過程は、また一反当りの肥料使用量の増加する過程でもあった。なお大正三年当時の一反当り平均肥料使用高をみると、第53表のようになっている。

第53表 反当り施肥料(大正3年)
自給肥 金肥
円 銭 円 銭 円 銭
水田 4. 5. 9.
大小麦 2. 3. 5.
桑圃 1.50 0 1.50
甘藷 2. 0 2.