短冊苗代と正条植

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すべての作物の耕種法の改良について述べることはできないので、水田地帯に固有な稲作についてのみ述べることにしよう。明治二十年代に老農や新進の農学者によって唱えられた塩水選、正条植、苗代の薄蒔き、種子交換、浅植などの耕種法は、当時ほとんど普及しなかった。明治三十年代にはいると、政府は法的強制指導によってこれら改良農法の普及をはかるのである。政府は明治三十六年、全国の農会に対し米麦種子の塩水選、短冊形共同苗代、通し苗代の廃止、稲田の正条植、牛馬耕の実施、耕地整理等を布達し、その実行を促している。

 塩水選とは、塩水の比重を利用して種子の良否を鑑別する方法であって、唐箕選に比較すれば五分ないし一割の増になるという。短冊形共同苗代とは、播種の均一をはかり、発芽後の手入れと病虫害駆除予防を容易にするため苗代の幅を四尺前後とし、苗代の間に適当な通路を設け、かつまた苗代を散在させず共同に設置することを意味する。通し苗代の廃止とは、苗代に利用するのみで休閑する水田を廃止することである。正条植とは、挿秧後の除草、施肥、浮塵子(うんか)の駆除に際し労力を節約する目的で、規則正しく挿秧することをいう。正条植によるときは反当一斗余の増収をみたといわれている。

 埼玉県では明治三十七年四月、知事が各郡を巡回し直接各町村の有力者に訓示したらしく、南埼玉郡は同月四日、岩槻大竜寺に各町村長、農会長、大字一人ずつの有力者の出張を命じている。これよりこの地方の農事改良がつよい指導によって促進される。この知事訓示を具体化するために、四月十一日には越ヶ谷町天嶽寺で稲麦塩水選、短冊形苗代設置の注意、病虫害駆除予防法、肥料不足処分法などの講話会が開かれた。

 埼玉県ではすでに明治三十四年、稲模範作共進会において、稲の選種は塩水選とし、苗代は水苗代として、幅四尺から五尺の短冊形としその間に一尺幅の溝をつけること、本田植付は縄を張り「定規植」とするよう指導していたが、この時期より種極的な指導にのり出すのである。この時期より布達をもって半強制的に指導し、実行せざるものは科料または拘留などの罰則をもって普及させている。