短冊形苗代や正条植の直接の契機は、病虫害の駆除を容易にするためであった。すでに虫害は明治初年から南埼玉郡にも発生しており、南部村々は明治九年には蝗虫(方言ハネコ)に「大豆木綿ハ勿論植物ノ跡ヲ不見様食尽」(明治八年「騒擾時変」県立文書館)されており、十一年も同様であった。この頃は勿論、防除法が発明されておらず、害虫の捕殺とか被害作物の抜取焼却とかの幼稚な手段がとられていたにすぎない。
明治二十年代にはいると、埼玉県では田圃虫害予防法に関し県内各地の予防事蹟について明治二十六年に調査している。桜井村では、低田の晩稲の出穂に際し葉末枯色を呈した際、村内の老農に問い合わせ、名称不明の虫害と判明したが、虫の発生が衰勢を示したのでそのままにしたことが報告されている。原因不明と防除法のなさは、ただ虫害の衰えを待つしか方法がなかったのである。
明治二十七年には葉巻虫が南部に発生しており、三十一年には全国的に浮塵子(俗称ウンカ、ヨコバイまたはコヌカ)が発生してその注意を促している。三十二年には綾瀬村近辺に葉渋病(俗称ハシブ)、武里村近辺に苞虫(俗称コヒゲ)が発生し、また各地に浮塵子が発生した。この年、螟虫(ズイムシ)に対して郡役所では「燈火誘殺法」の効あることを指示していた。三十四年には郡北の鷲宮村ほか九町村で、苗代の「ガガンボ」の幼虫「キリウジ」(俗称手長虫)が発生し、市域村々をはじめ南部村々より苗の供給をうけている。この年十月には出羽村はじめ南部村々で螟虫が発生し、大きな被害を与えた。これら害虫の巣が畦畔の雑草にあるとみて、郡ではその焼払いを命じている。三十五、六年と二化螟虫の被害をうけた出羽村では、この頃より誘蛾燈を点じて駆除につとめている(越谷市史(六)二二〇頁)。
三十五年と三十七年には桜井村に稲の螟虫が発生し、駆除のため点火誘殺法を実行している。この頃より浮塵子駆除には注油駆除法が普及しだし、除虫菊を浸した石油や鯨油も用いられるようになる。螟虫の駆除法はいまだに採卵・誘蛾・被害作物抜取などの方法がとられていた。