越ヶ谷糯

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越谷地方の農業を考えるうえで特殊な位置を占めるものに越ヶ谷糯(もち)がある。江戸時代以来、江戸または東京の米穀市場においてつねに第一の声価を占めてきたからである。本節ではこの越ヶ谷糯について考えてみよう。

 越ヶ谷儒は越ヶ谷周辺二里四方の強埴土の土壌に産出する糯米の総称である。明治中期における越谷地方の糯種には六種類あり、そのうち有名な順にあげると、第一に太郎兵衛糯、第二にハヤリ太郎糯、第三に御膳糯の順であった。これらのほかには飯沼糯、白髪糯、源蔵糯等がある。御膳糯は細糯の一種で御前細糯とも称した。細糯の作付は瓦曾根を中心とする大相模村地方にみられたから、この地では太郎兵衛糯に次ぐ重要な糯種となっており、瓦曾根中村家の生産する細糯をとくに御前細糯といった。反当り収量をみると、太郎兵衛、ハヤリ太郎、御膳糯の三種は平年一石七斗ないし二石一斗であり、飯沼、白髪、源蔵糯は平年一石九斗から二石五、六斗の収量をあげ、粳米に比較すれば僅かに収量が少ない。

 また糯の米価をみると、明治二十年三月当時、越ヶ谷米市の相場で一円につき上等米一斗三升四合、中等米一斗四升、下等米一斗五升である。これに対し粳米は上等一斗八升五合であるので、糯の下等米に比較しても三升五合の差で、糯米が高価である。さらに糯価騰貴の趨勢にあったから、糯種生産の拡大の傾向がみられるという(「大日本農会報」第八一号)。