越ヶ谷糯のうちもっとも著名な太郎兵衛糯の原産地は、出羽村大字大間野と七左衛門の一部の沼田であるといわれる。近世初期、四丁野村(現宮本町)の名主会田太郎兵衛が、低地移植用として種名不詳の早稲糯のなかより品質優良にしてかつ早熟のものを選択し、その種を増植して広めたために、後世これを太郎兵衛糯と称したという。元禄年間には大間野村の中村某がこれを沼田に移殖し、より一層の成績をおさめたために、出羽地域の沼田をもって原産地とするまでに至っている。この地の沼地に風水害を避ける低湿地用早生米として村内に普及したのである。
明治期になると、二十三年頃大間野の中村悦蔵、中村貞次郎らはさらに種苗の選択を行い、太郎兵衛糯より粒形大茎稈強剛にして短きものを選んで「明治太郎兵衛」と称した。これは太郎兵衛糯以上の収量が得られたためその後普及するようになっている。明治四十三年四丁野の老農大野市五郎は、太郎兵衛糯のなかより選種し、栽培しはじめたものに「玉糯」がある。太郎兵衛糯同様にきわめて良質であったが、長稈で倒伏しやすい欠点をもっていた(越谷市史(五)九六頁)。
太郎兵衛糯は長粒にして少々錆色あり、粘力が強く美味であったという。菓子には片皮を製して最上であり、白玉団子はこれに粳米二割ほどを加えたものがもっとも良く、上等な薄皮餅にも必ず太郎兵衛糯を用いている。製造者が指頭でその餅を切るとき、他の糯米とは異なりすぐ識別できるほど上等なものであった。なお太郎兵衛糯よりわかれたものに白髪糯と柳糯とがあったともいわれている。この二種は丸粒で、品質は太郎兵衛糯よりやや劣るという。