越ヶ谷米と越ヶ谷糯

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幕末期、弘化二年(一八四五)の江戸地廻り米の位付をみると、粳米は武州岩槻米が上の上、越ヶ谷糯も糯米の最上位にランクされている。粳、糯米とも江戸市場において声価が高く、とくに粳米は格付け標準米となり、明治以降も東京米穀商品取引所の標準米となっていた。明治二十四年四月、深川の東京廻米問屋の玄米品評会でも越ヶ谷米(晩源蔵種)は一等となっている。晩源蔵は鬼の金歯と俗称されたほどよい色沢を呈し、伊勢の関取とともに東京市場の最優良米となっていたのである。越谷地方産出の粳米を総称して越ヶ谷米とも称されたと思われるが、なかでも源蔵種の晩稲米は有名であった。なお、大正期にはいると、蒲生村産の「神力」が東京深川米穀取引市場の標準米となっている。

 明治三十年頃の糯米の評判について当時の書物をみると「水稲糯は埼玉県越ヶ谷にて良種を産し、太郎兵衛糯、撰太郎を最も有名とし、菓子屋の有名なる者は必ず之を用ふ。東京附近にて良種と称する者は細(御膳細)、柳、白髪、弥左衛門、三次郎、二郷半等なりとす」(田口晋吉著「米の経済」)とある。太郎兵衛糯、撰太郎(ハヤリ太郎カ)糯はもちろん、細糯、柳糯、白髪糯は前述したように越ヶ谷糯の一種である。これらはいずれも東京市場で上位に見られていた。

 越ヶ谷糯についで有名な糯は、二郷半領の三次郎糯である。二郷半領は有名な早場米の産地であり、三次郎糯もまた丸粒の最早種であった。これらに次ぐものが、葛西領の弥右衛門糯である。明治中期には地味にあわなくなり、減収となり米品も下ったといわれている。武蔵以外では、常陸の谷原領の糯米が有名であった。この糯は上作ならば越ヶ谷糯を凌駕すると言われたが、平年作では越ヶ谷糯の次品となるという。流山の古味醂の醸造には、この谷原領糯と土浦糯が用いられていた。この谷原領糯に次ぐのが、近江の篠原の御前糯である。御前糯は江戸時代徳川将軍家の食用餅に用いられたといわれ、越ヶ谷の御膳細糯と同じ由来によっている。また薄皮餅に越ヶ谷糯の代用をしたものは、肥後の糯米である。これは良質のため、江戸時代には藩主への上納用の糯米であった。参考までに明治十一年十二月の東京の正米相場をみると、次のようになっている(○印は越谷産出)。

  一円ニ付

  谷原新糯 一・一七升  行方糯   一・二五升   干潟新糯 一・二八升

  ワラ皮糯 一・二   ○越ヶ谷糯  一・一二    曾根糯  一・二五

  竜ヶ崎糯 一・二六  ○越ヶ谷新糯 一・〇七    葛西糯  一・二二

  流山新糯 一・二九   土浦新糯  一・二一

  行方新糯 一・三一   土浦糯   一・二四