生産の過程

205~207 / 1164ページ

出羽村より第三回内国博覧会に出品された解説書によって、当時の太郎兵衛糯の生産状況を、粳米の谷塚源蔵種のそれと比較して検討してみよう。このときの太郎兵衛製は、出羽村越巻の小字屋敷前の湿地で膏腴粘土の場所に生産されたものであり、谷塚源蔵種は同村谷中の小字寅発のものである。

太郎兵衛糯谷塚源蔵(粳)
準備播種前七、八日~一〇日間、流水浸種播種前七、八日~一〇日間、流水浸種
播種四月土用の二、三日後五月八十八夜
田植播取後三四、五日(五月二十五、六日頃)
一株六、七本~八、九本とし、一坪に五七、八株植付
播種後三五、六日(六月十日頃)
一株五、六本~六、七本とし、一坪に五六、八株植付
培養六月上旬万能または鉄熊手で耕耘または莠草をとる
七月土用前までに田の草とり三回
六月中旬小万能または鉄熊手で株の左右の畝起、莠草とり、七月土用までに田草とり三回
施肥〆粕八斗四升(反当り六斗)〆粕一反に付き三斗づつ二回
刈り取り秋彼岸一四株を一束、木または竹に架す秋土用(十月二十一日)一四、五株を一束、木または竹の稲架にかける
労働力三〇人二五人
製造刈穂よりコキ取り、五~七升ずつ莚で日照、のち磨き立てる刈り穂より鉄コキにてコキ取り、一~二日間、七~八升ずつ日照、のち磨き立てる
農具万能、草刈鎌万能、擦鍬、熊手、水車碓
反当収量二石二石四斗
石当り価格一〇円九円二十五銭

 蒲生村大能家・出羽村井出家の農業記録との関連でみると(小沢正弘「近世後期の越ヶ谷地方の農業」越谷市史研究報告)、浸種は四月七日ないし九日が一般的で、播種は四月二十一日より二十五日ぐらいであった。太郎兵衛は四月二十~二十一日であり谷塚源蔵は五月二日で、やや遅い。浸種より播種まで、右史料は七、八日~一〇日間とされているが、井出家の場合九日間、大熊家は一四~一八日間である。苗代ごしらえも「四月中旬ニ至リ水ヲ灌ギ土塊ヲ砕キ〆粕ヲ細カニシ種籾ノ石数ト等シキ割合ヲ施」(越谷市史(五)五九頁)している。

 田植は五月末より六月中旬にかけて行われたが、太郎兵衛糯は早稲のおくてないし中稲のわせ型であるため、植付けは早くなっている。収穫期は早稲が八月末より九月下旬、中稲が十月中旬より十一月、晩稲が十一月より十二月上旬である。太郎兵衛は秋彼岸(九月二十一日)、谷塚源蔵は秋土用(十月二十一日)で、中稲であるが、太郎兵衛は早稲に近い。太郎兵衛は谷塚源蔵に比較し厚蒔であり、成熟期間が短く、反当収量も少ないものの、価格は高くなっている。収穫の反当収量の二石は当時の平均値であり、播種量は四~五升と思われるので、四〇~五〇倍の伸びを示している。農具は表示したもの以外にも、たとえば桜井村では「コスリマクワ」「カラ臼」などが用いられた。