生産量の推移

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越ヶ谷糯の声価が明治期も高く、高価で売買されたとすれば、市域全体ではどれほど生産されていたのであろうか。直接、当時の市域全体の数値を知ることができないので、昭和五年の場合を第55表でみると、南埼玉郡全体の水田耕作反別のうち市域村々(川柳村全域を含む)の反別割合は三〇%弱である。これを粳糯米反別でみると、粳米反別の方が糯米反別より比率のうえでは多い。にもかかわらず収穫高の比率でみると、粳米二六%に対し糯米は三〇・六%となり、相対的に糯米の生産高の方が多いのである。このことが価格の比率の高さにあらわれており、三二・九%(価格総額二二万五五七四円)に達している。市域村々における糯米の相対的な地位の高さを示しているものと云えよう。それにしても糯米価格は粳米価格の二〇%強にすぎない。

第55表 昭和5年米(粳・糯)比較表
数量 比率
作付反別 収穫高 価額 作付反別 収穫高 価額
市域村々 粳米 3,085.7 57,068 1,102,192 29.3 26.0 29.6
糯米 652.7 12,645 225,574 29.0 30.0 32.9
南埼玉郡 粳米 10,542.5 219,346 3,719,002 100 100 100
糯米 2,248.2 41,331 685,556 100 100 100
埼玉県 粳米 63,303.4 1,329,907 22,493,848 600 606 604
糯米 13,896.5 250,942 4,145,435 618 607 604

「埼玉県統計書」市域村々には川柳村を含む
比率=市域村々/南埼玉郡

 大正末期の越ヶ谷糯の年産額は「実ニ弐参万俵ヲ計上スルニ至ル」(越谷市史(五)九九頁)と言われている。これは四斗俵とすれば八〇〇〇石より一万二〇〇〇石の間である。当時の越ヶ谷糯の生産量は一万石前後であったのであろう。大正三年の越谷地方二町八ヵ村の作付反別は五七二町五反で、その収穫高は七三二九石であったという(越谷市史(六)三二八頁)から、市域全体では大正・昭和期は増加傾向にあったようである。桜井村の糯・粳米の作付反別、収量(陸稲は明治四十五年よりあらわれる)をみれば第56表のようになる。

第56表 桜井村米穀作付反別・収穫石高表
項目 作付反別 収穫量 収穫比率
年次
反歩 反歩
明治17 3,208 92 97 3
〃 19 2,453 302 3,142 392 89 11
〃 22 2,190 369 2,624 443 86 14
〃 25 1,930 629 2,702 755 78 22
〃 28 2,171 388 2,605 466 85 15
〃 31 2,079 480 3,326 672 83 17
〃 35 2,079 480 1,663 408 80 20
〃 41 2,046 511 2,455 562 81 19
〃 44 2,295 270 3,672 378 90 10
大正3 2,286 280 3,658 420 90 10

各年「発議書類」「勧業統計表」より

 明治二十五年頃急増した糯米は、その後減少を示しながらも増減し、明治四十三年の耕地整理をさかいに明治十九年の水準に落ちている。作付反別にくらべ生産量の減少の割合の少ないことは、土地生産力の上昇を示している。