養蚕と織物

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養蚕および織物が市域村々で普及するのは、明治期になってからである。もちろん正確な始期は判明しないが、北部の村々では幕末期には行われていたであろうと思われる。しかし北部の桜井村では明治五年の織物産額は「なし」と報告されているように、養蚕ともどもわずかに行われていたにすぎないと思われる。

 統計上の数値が明らかとなる明治二十年代の桜井村についてみれば、明治二十二年の年産繭量は五石七斗(繭四石五斗、玉繭九斗、屑繭三斗)にすぎない。二十六年には八石、二十七年には九石余と増加し、三十年には二五石、二十八年養蚕戸数一〇〇戸に達する。それでも全戸数のほぼ二六%にすぎない。明治三十四、五年には養蚕戸数は二〇〇戸に増加するが、産繭量は三〇石とさほど伸びていない。当時の桑畑は三町二反歩である。これをピークに三十年代後半より四十年代には減少し、四十三年には三三石の産繭量をあげているものの、養蚕戸数は八五戸となる。養蚕の専門化がやや進むのである。

 これに対し織物をみれば、桜井村では明治六年より白木綿の製造高が二〇〇〇反、製造職工三人、一日一人の賃銭は七銭と報告されている(越谷市史(五)一一一頁)。その後の推移をみると、明治十二年に二五〇〇反、十四年には三〇〇〇反に増し、賃金も一日一〇銭に上昇している。一反当りの巾尺は尺二丈八寸、巾九寸五分で越ヶ谷町や大沢町へ売り出されていた。その後の変化をみると第61表のようになる。

第61表 桜井村の織物戸数と産額
年次明治15明治18明治23明治25明治28明治32明治35明治41明治44
織戸3戸3戸5戸2戸1戸16戸14戸
機数15台8台1台18台14台
織工(女)15人5人1人18人14人
綿織物3,000反2,000反2,000反2,500反4,000反2,100反400反
価格1反当り55~75銭1反当り25~35銭666円875円1,400円1,365円300円
備考白木綿白木綿白木綿白木綿生木綿生木綿
縞木綿
木綿縞

各年「発議書類」

 この織物はいずれも綿織であるが、明治二十二年の場合には綿織物一五一〇反のほか、絹織物二三反、絹綿交織物三四反もみられるので、これらの報告統計上の数値以外に多少の絹織も行われたかもしれない。

 二十二年当時の綿産額は二四〇〇貫、二十三年一五〇〇貫、二十九年一三〇〇貫である。綿織物も明治二十八年に最大の産額となるが、これをさかいに白木綿より生木綿へ、さらに縞木綿へと変化する。いっぽう製造戸数は、明治二十八年には従来の三戸より五戸に増加し、一戸当り平均三台の機数をもち、三人の職工を雇うまでに経営が拡大されるが、その後減少し、四十年代には戸数は一六戸ないし一四戸に増大するものの、いずれも賃機であり、各一台の手織機を用いて問屋に従属する経営となっていた。