麦稈真田業

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桜井村で麦稈真田が営業(商業)として最初に申請が行われたのは、明治三十年八月のことである。このとき「麦稈真田仲買行商鑑札」の下附願いが大泊の瀬尾長吉から出されている。市域村々ではこの頃はすでに麦稈真田の生産が盛んであったのである。桜井村の明治二十九年の調査によれば次のようになっている(明治二十九年「庶務土木一課発議編」)。

  一、真田紐製造ノ由来ハ神奈川県(東京府の誤)大森ヨリ伝習シ来リタルモノナリ

  一、重ナル製造地ハ最寄桜井村、新方村、武里ナリ

  一、一本ニ対スル製造費ハ金九銭

  一、一本ニ対スル収益ハ金九銭

  一、一本ノ代価ハ金拾八銭

  一、一本ノ長サハ拾八丈

  一、執業麦ノ種類ハ、俗ニ五打、七打ノ二種ニテ、ゴバタテト云フ種類ナリ

  一、製造地ノ売買方法ハ、各戸ニ買回リヲナスモノト、仲買等アリテ之ヲ売買ス

  一、輸出ハ東京市四分、神奈川横浜六分

 麦稈真田業は明治初年、東京府下大森地方に行われたのが最初という。明治七年にはじめて海外に輸出され好評をはくし、大森地方の産額だけでは供給しきれず、各地に行われることになった。埼玉県では、市域大袋地区に隣接する武里村大畑の山口角蔵により先鞭がつけられている。東京大森の人が山口宅を訪れ麦稈の売買をしたのが最初で、これを契機に村民に、農閑期に麦稈を抜かせてこれを購入して大森に輸送をはじめている。じつに明治十四年十月のことであった。

 これ以後真田紐の製造をするため、大森より教師を迎えて教えを乞い、さらにこれを村びとに教えたため、十六年ごろからは製造するものも何人かあらわれている。市域村々へもこの頃には伝えられていたのであろう。この生産の中心となったのが武里村と桜井村であった。

 麦稈真田紐の原料は関西では裸麦稈、関東では大麦稈を用いたが、市域では大麦「半芒種」を用い、「穂梗」および第二の稈をもって製造した。この大麦は普通に栽培したものを普通の収穫期より五、六日早く刈り取ればよいのであって、刈り取り後は雨露にあわないようにして脱穀し、その稈を湿気の少ない室内に貯蔵する。農閑にさらに太陽によって乾かしたうえで、抜き取った稈を原料とするのである。これらを径二~三寸の束にし六寸内外の長さに切り揃えたものを、亜硫酸ガスで三~四時間いぶす。これを選別して大小等しくするために、篩にてわける。これで編むのである。

農家の藁作業

 真田紐は三本打より二一本打までの種類があり、その模様は白無地打、色交ぜ打、合せ打など一〇〇〇種に及んだという。明治三十年頃さかんに製造したものは五角および七角の二種で、これを編み方より区別すれば、平打(ヒラウチ)、菱打(ヒシウチ)、角打(コバウチ)、かはり打の四種があった。これらは横浜か大森地方に輸送するか、東京の帽子製造家に販売し、また地元村々でも帽子に製造して輸出するなどが行われている。明治二十九年度における産額は埼葛地域で一〇〇万本、二八万円余の収入であったという(「埼玉県農会報」第七号)。桜井村の産額の変化をみると第62表のようになる。

第62表 桜井村の麦稈真田産額表
年次明治27明治30明治31明治33明治34明治41明治42明治44大正元大正3
麦稈真田15,000本8,000本5,400本(5)(4)1,500本(2)1,000本(5)800本(5)9,333本(3)4,000本
1,200円800円270円150円110円40円560円160円
経木真田3,000本(3)3,500本(5)3,500本(5)3,937本(4)2,000本
360円420円175円630円80円
麦稈経木交真田製造戸数
29,545(1)
6,500本

( )内製造戸数  各年「発議書類」