箱製造業

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江戸時代から市域北部村々の有名な特産品に桐箱があった。明治八年当時新方村向畑・北川崎地区のみで一二万余個の生産量をあげていたことはすでに述べた。この新方村のその後の変化は明らかではないが、となりの桜井村でも当時より生産されていたので、その推移についてみておこう。第63表がその変化を示したものである。具体的数量は明治二十二年より明らかであるが、箱の具体的な種類などは明らかでない。薬箱などが主であったようである。明治二十七年まで増大していた産額が、三十年代にはどのように変化するか明らかでないが、四十年代には再び明示されている。明治四十四年箪笥・洋箪笥が生産され、翌四十五年(大正元年)には机、書箱などもみられるが、この年にこれらのものがはじめて生産されたのか、薬箱の類は全然なくなったのかなどは判明しない。

第63表 桜井村の箱生産量の変化
年次 明治22 明治23 明治27 明治44 大正元 大正3
製造数量 箪笥 250組 32,000ケ
桐細工箱 桐細工箱 桐細工箱 箪笥 300組 洋箪笥 228組
4,000ケ 43,000ケ 45,000ケ 洋箪笥 1,100組 200ケ
書箱 250ケ
製造価格 1,340円 箪笥・洋箪笥 2,800円 5,300円
机・書箱 800円
製造戸数 21戸 21戸 箪笥 6戸 26戸
箪笥 6戸 洋箪笥 27戸
洋箪笥 22戸 6戸
書箱 7戸

各年「発議書類」

 大正三年の産額は、「日用品タル枕、歯磨箱、薫(勲)章箱、其他箪笥、机、書箱等」(大正三年「勧業発収書類」)の総額である。明治前期より総量においてやや少なくなっているものの、箪笥類などの大ものや多様な箱類が生産されるようになり価格も上昇してくる。製造戸数は明治期を通じ増加傾向にあったものの、ほぼ二〇戸台であったようである。生産品は粕壁町や東京に移出されたが、生産自体は「農閑、雨天、夜間等ヲ利用シ各戸製造スルモノ」(同前)であり、家内小工業的な性格をもっていた。

 明治二十三年当時の薬箪笥製造法をみると「鋸リ・鉋ナ・鑢・サンカネ・錐・鑓チノ類」(越谷市史(五)六七頁)を道具として、岩槻辺より買い入れた「桐材・黒柿・真鍮」などを製造用材料として三月頃より十二月ごろまでの間に生産されているが、基本的にはこの製造方法は明治期を通じて変化なかったのであろう。桐箱生産は当時市域としては前途有望な製造品の一つであった。