明治二十一年の桜井村営業者のなかに二人の鶏卵商が含まれており、二十三年の内国勧業博覧会には川柳村より鶏が出品されていた。すでに二十年頃に鶏卵の売買も盛んになっていたのである。
大相模村では明治二十三年、中村重太郎が在来の鶏に輸入種「淡色フラマ」「褐色レクホーン」「黒色スパニシ」等を交配して産卵の多い新種をつくり、村びとにすすめたためにこの交配種が普及したといわれている。三十年頃耕作物を害したため、一旦衰退にむかったが、三十五年小学校新築の村債償還と納税を確保するため、毎戸五羽以上を飼育しその益をもって充当することにして成果をあげている。その後ますます普及し、明治四十年には一戸当り三〇羽強を養鶏し、一戸六〇円の収入を得るに至っている。当時好評の鶏種は白色レクホーン、バフレクホーン、黒色ミノルカ、黒色またバフのオーピントン、白色または漣斑のプリモースロックなどであった。この村の養鶏は採卵を主とし、肉用を従としている(「埼玉新報」明治四十年十一月十日付)。
一〇〇羽以上飼育者は八戸も存在するが、養鶏一〇〇羽の飼育損益表を示すと第64表のようになる。
収入 | 支出 | ||
---|---|---|---|
卵価 | 315円61銭 | 年間餌料 | 197円10銭 |
鶏糞代 | 36円 | 米糠・大麦・青菜類 | 52銭 |
雇人給料食料 | 28円 | ||
鶏舎諸費 | 10円 | ||
合計 | 351円36銭 | 合計 | 235円10銭 |
差引 | 116円26銭 | 純益金 |
(集計数字は原史料のまま) 越谷市史(五)75頁
なお桜井村の場合をみると、第65表のようになる。いずれも「営業ノ目的ヲ以テ飼育スルモノナシ」(明治四十二年「庶学土勧発議書類」)とされるものの、鶏卵の売買はさかんに行われていたようである。当時桜井村は四〇〇戸ほどであるから、村全体の半分前後の農家にほぼ一戸当り一〇羽前後の鶏が飼育されていたことになる。
年次 | 戸数 | 鶏数 | 左価額 | 産卵 | 左価額 | |
---|---|---|---|---|---|---|
戸 | 羽 | 1戸当り | 円 | ケ | 円 | |
明治41 | 250 | 2,616 | (10.5羽) | 441 | 12,000 | 180 |
〃 42 | 260 | 2,340 | (9 ) | 234 | 187,200 | 2,246 |
〃 45 | 140 | 1,400 | (10 ) | 252 | 14,000 | 210 |
大正2 | 200 | 1,500 | (7.5 ) | 270 | 15,000 | 225 |
(明治42年の産卵および価格は現史料のまま) 各年「発議書類」