養鶏業

218~220 / 1164ページ

明治二十一年の桜井村営業者のなかに二人の鶏卵商が含まれており、二十三年の内国勧業博覧会には川柳村より鶏が出品されていた。すでに二十年頃に鶏卵の売買も盛んになっていたのである。

 大相模村では明治二十三年、中村重太郎が在来の鶏に輸入種「淡色フラマ」「褐色レクホーン」「黒色スパニシ」等を交配して産卵の多い新種をつくり、村びとにすすめたためにこの交配種が普及したといわれている。三十年頃耕作物を害したため、一旦衰退にむかったが、三十五年小学校新築の村債償還と納税を確保するため、毎戸五羽以上を飼育しその益をもって充当することにして成果をあげている。その後ますます普及し、明治四十年には一戸当り三〇羽強を養鶏し、一戸六〇円の収入を得るに至っている。当時好評の鶏種は白色レクホーン、バフレクホーン、黒色ミノルカ、黒色またバフのオーピントン、白色または漣斑のプリモースロックなどであった。この村の養鶏は採卵を主とし、肉用を従としている(「埼玉新報」明治四十年十一月十日付)。

 一〇〇羽以上飼育者は八戸も存在するが、養鶏一〇〇羽の飼育損益表を示すと第64表のようになる。

第64表 大相模村の養鶏100羽飼養損益表(明治40年)
収入 支出
卵価 315円61銭 年間餌料 197円10銭
鶏糞代 36円 米糠・大麦・青菜類 52銭
雇人給料食料 28円
鶏舎諸費 10円
合計 351円36銭 合計 235円10銭
差引 116円26銭 純益金

(集計数字は原史料のまま) 越谷市史(五)75頁

 なお桜井村の場合をみると、第65表のようになる。いずれも「営業ノ目的ヲ以テ飼育スルモノナシ」(明治四十二年「庶学土勧発議書類」)とされるものの、鶏卵の売買はさかんに行われていたようである。当時桜井村は四〇〇戸ほどであるから、村全体の半分前後の農家にほぼ一戸当り一〇羽前後の鶏が飼育されていたことになる。

第65表 桜井村養鶏戸数と産額
年次 戸数 鶏数 左価額 産卵 左価額
1戸当り
明治41 250 2,616 (10.5羽) 441 12,000 180
〃 42 260 2,340 (9 ) 234 187,200 2,246
〃 45 140 1,400 (10 ) 252 14,000 210
大正2 200 1,500 (7.5 ) 270 15,000 225

(明治42年の産卵および価格は現史料のまま) 各年「発議書類」