郡農会で稲模範作共進会を実施するのは三十四年である。この第一回は埼玉県稲模範作共進会規程が適用され、稲作の改良進歩をはかる目的で「県・郡・町村農会系統的」(明治三十五年「学務勧業収受書類」)に組織されている。出品すべき稲品種は関取、荒木、近江の三種とされ、これに不適な地方はその地域独自の品種でもよいことになっている。稲の選種は塩水選とし、苗代は水苗代にして幅四尺内外で長さは短冊形とし、その間におよそ一尺幅の溝を設けることとされた。のち短冊苗代奨励へ積極化する出発点であった。
審査は五月二十八日よりはじまり、途中、苗代検査、本田検査を経て終了したのは十月三日であった。出品点数は苗代二六八点、本田二一三点で郡北部村々が積極的で、市域では出羽村、大相模村、増林村、川柳村などが熱心であったようである。市域村々は植付当初は良好で成績優等であったが、虫害が発生し、肥料配合も窒素分が多いために茎稈軟弱となり成熟不良となっている。中島喜右衛門、秋山勇之助(蒲生)が二等に、今井晃、江原理之助(増林)、秋山源兵衛(出羽)、吉田常七(大相模)らが三等に入賞している。明治三十五年の第二回においては南埼玉郡全体で三二ヵ村より五四九人が出品したが、市域村々では出羽村二九点、大相模村二四点、増林村一八点、蒲生村一三点、荻島村一五点、桜井村六点が出品された(「埼玉新報」明治三十五年六月十四日付)。秋山勇之助、今井晃、秋山国太郎らのほか、駒崎次郎吉(出羽)、川島一郎(荻島)、中村恵忠寿(桜井)らも賞状を得ている。