三十三年三月には出羽農会で一〇日間の農事講習会が開かれ、四十五年には大袋農会主催の牛馬耕伝習会も開かれた。だが四十年頃までの町村農会の活動は市域に限らず全体的に不活発であり、その救済法が真剣に検討されていた。とくに会費負担が会員の生活を圧迫することが原因であったようである。
町村農会が独自に活動するのは、明治四十年代にはいってからと思われる。それも各町村の事情により熱心さはまちまちであった。もっとも活発な農会はこれ以前からも他町村に率先して諸事業にとり組んでいるが、郡下では鷲宮村、武里村、潮止村が活発であった。市域村々ではとくに秀でた農会はなかったようである。この時期の農会は農事改良という技術的範囲の活動が主であった。明治四十三年帝国農会の成立により、農会の中央機関が成立し、農政を含めて全国的に農会運動が活発となってゆく。