産業組合の成立

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明治四十一年二月、南・北埼玉、北葛飾三郡合併の産業組合講習会が岩槻の郡役所議事堂で開かれている。四月には「産業組合成績概要」や「地主ト産業組合」などの印刷物が各村に配布され、九月には組合設立に関する訓令が発せられ、十月には二日の粕壁町を最初に、四日大袋村、六日桜井村、七日大沢町、八日荻島村、九日新方村と、産業組合講話会が開かれた。この年より各町村への産業組合設立が政策としていっせいに督促勧奨されるのである。

 ところでこの産業組合は、その歴史を江戸時代の二宮尊徳の報徳運動や大原幽学の先祖株組合に発している。農村への貨幣経済の浸透に対応して成立してきたものであるが、明治になるとドイツ、イギリス、フランスなどの組合制度を模倣して日本の農村の現実と同化させてきた。明治三十三年産業組合法が成立するが、これは日清戦争後の資本主義的生産の発展にともなう農村経済への影響から、中小農民を保護する必要から生まれたものといわれている。その目的は小農・小工商に金融の便宜をはかり、中産以下の人民の産業を維持し、その勤倹貯蓄の精神を鼓舞し、貧富懸隔の弊を防ぎ、もって後進国日本の総動員的向上をはかるものとされた。零細農民の結合と兵力供給の基盤としての農民保護に、その目的があったのである。この傾向は日露戦争後より一層顕著となる。全国的にも組合設立がつよく勧奨され、四十年代に設立数は急増する。

 市域では四十年七月に大相模村信用組合が設立され、四十二年には東小林信用購買販売組合、四十四年十二月大袋村三之宮信用販売組合、四十五年三月桜井村信用販買組合などが設立されている。蒲生村・荻島村での設置は大正五年であった。