自小作の変化

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土地の移動によって土地は地主の経営する土地に編入される場合もあったが、かつての土地所有者が土地をそのまま小作地として保有して小作人となる場合が圧倒的に多かった。そこで小作地の比率の変化について桜井村の場合をみれば、第69表のようになる。

第69表 桜井村の小作地率の変化
明治18明治19明治22明治23明治26明治28明治30明治34明治41明治44
42.844.149.954.947.247.160.045.145.0
38.038.950.654.646.346.260.045.045.5
合計41.042.142.150.254.846.846.860.045.045.2

越谷市史(五)115頁

 明治十八年現在ですでに四一%に達している。この前年、十七年当時の埼玉県平均の小作地率は四三%、南埼玉郡の平均は四四%である。十八年でも変わらないものとすれば、桜井村の四一%は県・郡の平均以下であるから、つまりは地主化の進展の度合は県や郡よりやや遅れていたということになる。これが明治二十三年には五〇%台となり、二十八年、三十年には四六%台におちるものの、明治三十四年には六〇%に達し、二度目のしかも最大のピークに達するのである。明治三十五年の県平均の小作地率は四二・三%であり、南埼玉郡の平均小作地率は五二・五%である。したがって桜井村は明治十年代末は県・郡平均値以下であったが、二十年代に小作地化が進展し、三十年中途においては県・郡の平均値を大きく上まわって地主化が進んでいたことが明らかとなる。

 その後四十年代には郡と県は四六%、四三%となっており、桜井村の比率も四五%に下ってほぼ平均的な数値となる。このような小作地の変化の傾向が市域村々全体に共通するかどうかはわからないが、少なくとも市域の一つの傾向を示していたことは間違いない。