地主の規模

231~232 / 1164ページ

つぎは明治三十年当時の地主層の土地所有規模をみておこう。第70表は南埼玉郡全体の地主層と市域村々の地主層を所有規模別にわけて表示したものである。川柳村は全員を市域に入れている。史料は所得税調査の下調書を用いたために、所有反別が少ない者でも営業収入、貸金収入、給料、株券などの収入の多いものが含まれている。したがって本来、地主ということができない人びとも表示している。とは言え、当時の所得の中心は土地からの収入、つまり小作料収入にあったから、この調査は他方で地主調査たる性格も持っている。所得の中心を営業その他の土地以外の収入に依存していれば、経営の主力はそちらにおかれたから、わずかに所有する土地もそれだけ小作地になりやすい性格も持っている。

第70表 南埼玉郡・市域村々の地主規模
南埼玉郡市域村々合計
1町以下33
1―2235
2―3516
3―4415
4―5112
5―6549
6―7426
7―8426
8―911718
9―10191433
10―1223156238177
12―15292049
15―20291241
20―30321749
30―4013720
40―507411
50―70415
70―100314
100町以上33
合計201112313

(明治30年)

越谷市史(五)117頁

 そこでこの表より言えることは、南埼玉郡も市域村々も二〇町歩を前後とする、一〇町歩より三〇町歩を所有する地主がもっとも多いということである。所得税の調査対象となった郡全体では三一三人のうち一七七人が、市域村々では一一二人のうち六二人がこの規模の地主である。最高は南埼玉郡では一四三町歩余の粕壁町田村新蔵、一三八町歩余の、同じく粕壁町の永田勘六らであり、市域周辺では八九町歩余の川柳村藤波伝左衛門(草加市青柳)をはじめ、六四町八反歩の大袋村細沼貞之助、四八町九反歩余の出羽村野口源次郎らがあげられる。