前節でみたような地主制の形成は、それ自体、商品・貨幣経済の農村への浸透がひきおこした農民の階層分化を背景としている。資本主義による農村の変質が過渡的に進行する段階であったから、当時の地主層は、農業における豪農的な経営をつづけ、同時に商人であり金貸業をかねながら、小営業にもたずさわるという複合したかたちであった。しかし産業革命による工場制工業の創出は、複合した経営を変化させ、地主層は商業・金貸業を営みながらも、小営業から切りはなされて株券・公債証書などをもつ金利取得者としての側面をもつようになる。前述のような南埼玉郡下の地主層は、ちょうどこのような時期に到達していたのであった。
こうして地主層が取得した小作米の販売によって得た貨幣は、有価証券をもつことによって資本に転化する。この関係をさらに直接的に表現したものが地方銀行である。明治三十一年越ヶ谷町への鈴木銀行の設立は、まさに生まれるべくして生まれたものであった。
ところで、地方銀行は地方の国立銀行とともにすでに明治十年代より設立されている。明治十一年十二月の第八十五国立銀行(川越)を最初に、明治十三年の川越銀行、十四年の松山銀行、金山銀行(所沢)など西武地域に多くの国・私立の銀行が早くから設立されていた。県下全体で明治十年代に一二行にすぎなかった県内の私立銀行は、明治三十年前後(二十七年より三十三年まで)には一斉に六一行の設立をみる。東武地方では二十九年に粕壁銀行が、三十年に加須銀行が設立されており、三十一年には越ヶ谷町の鈴木銀行、越ヶ谷貯蓄銀行のほか、久喜、菖蒲、栗橋、騎西、羽生銀行が設立され、銀行ラッシュとなっている。