質屋の金融

239~241 / 1164ページ

ところで村々の生活において貨幣の流通は、銀行によってのみ担当されたわけではない。銀行設立以前からそれ以後にかけても、村びとの生活に密着した金融としては無尽講・頼母子講や質屋金融などがあり、また明治政府の税務行政上の国税収納機関は、南埼玉郡の場合「本店浦和宿ノ中井新右衛門」方であった(明治十二年「御布告摺物」西方 秋山家文書)。

 これらすべてについてはふれられないので、質屋金融についてのみみておこう。明治二十七年貨幣制度調査会は、調査上の参考として各地の金融事情を調査したが、これに対する桜井村の回答をみると、次のように報告している(越谷市史(五)一一一頁)。

                〈冠婚葬祭〉         〈生活程度〉

  明治元年より十年まで    普通費用・慣行通り      従来同様普通ノ度

   〃十一年より十六年まで  金融活発・奢侈・増費ヲ要ス  侈富シ生活増進

   〃十七年より二十六年まで 貨幣不融通、倹約減費ス    金融欠乏・物価下落・困苦

つまり明治十年代にはいり生活程度が高まり支出が増し、金融も活発になったが、十七年以降は金融は逼迫し、不景気が続いたというのである。このような情況が質屋の金融にどのように反映しているのであろうか。これを越ヶ谷町三鷹屋内藤家の貸出金高および受戻金高の変化についてみれば次頁の図のようになる。明治十七年のみ貨物取高の総額であるため正確ではない。貸金高の場合はやや少額になるので高低はこれほど明確とはならないであろう。

 図によれば、明治十七・十九年の松方財政のもとでのデフレの影響で揺れを示した貸出金が二十一年より漸増し、二十九年にピークに達している様子が明らかである。この二十九・三十年にピークないし近似値を示す傾向は、内藤家の個人的事情ではないことは、参考として示した桜井村の三~四軒の質屋営業者の総貸出金の変化をみても明らかであろう。貸出金に対して受戻金は、明治十八年当時の貸し出しも受け返しもほぼ近い額の出入であった時点からみると、カーブ自体は平行的ではあるものの、間隔が広がっているように、貸し出しの割合には質物の引き戻しができなくなっていることを示している。

 したがってこの間隔にみられる差額金額分は潜在的に質流れとなる性格をもっており、これに応じて明治二十五年より質流金額も明確に計上されるようになっている。桜井村でも二十九年より質流金が計上されている。二十年代後半より三十年代前半にかけて、担保物件の土地が流れて地主制の確立に寄与することは前述のとおりである。銀行が設立される明治三十一年をさかいに桜井村の質屋は激減し、まもなく一人もいなくなっている。

三鷹屋内藤家の質屋金融