取り付け騒ぎ

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明治三十八年、鈴木銀行にとっては最初の試練のときをむかえていた。日露戦争が終って講和条約が締結されると、その内容に不満をもつ人びとは、九月五日の日比谷公園の国民大会直後、電車や交番を焼き打ちする暴徒と化していった。この事件の余波で、株式相場は変動し、相場師の鈴木銀行東京支店長鈴木久五郎は大損をしている。これが新聞に発表されるや鈴木銀行に対する流言がみだれとび、ついに越ヶ谷町の本店では取り付けが行われ預金者が殺到して、全預金一〇〇万円余のうち六〇万円が一日のうちに払い出される有様であったといわれている。

 この取り付け騒ぎをどうにか切り抜けた鈴木銀行は、明治四十年に再び取り付け騒ぎが起り、ついに一時預金支払いが不能となっている。この原因も東京かぶと町で常勝将軍といわれた相場師「鈴久」こと鈴木久五郎の、経済不況による銀行資金の使い果しであると言われている。この鈴木銀行の頭取以下三人の社員が大株主であったことも関係して、越ヶ谷貯蓄銀行でも取り付け騒ぎが起っている。

 四十年六月二十九日には越ヶ谷町役場で債権者会議が開かれ、出席者七〇名中より各町村より委員一名を選び、そのなかよりさらに中村悦蔵、大塚善兵衛、中村恵忠寿ら六名の代表委員を選んで頭取と交渉にあたっている。彼らは鈴木家の財産整理委員となり河内屋に事務所を設けて執務したが、本店のほか草加、鳩ヶ谷支店などの委員間に内紛が起り整理に手間どっている。鈴木銀行に預金する周辺村々では村議会で預金返還請求が協議されている。

 なおこの時破産宣告をまぬがれた鈴木銀行は大正八年まで続き、越ヶ谷貯蓄銀行は明治四十四年八月に大宮町の氷川貯蓄銀行に統合され、越ヶ谷町に支店がおかれた。