鈴木・越ヶ谷貯蓄銀行のほか、明治三十七年一月には出羽銀行(頭取野口源次郎)が出羽村に開設されているが、同四十二年五月には日進銀行、大正四年二月には中井銀行、大正十五年三月には川崎第百銀行が越ヶ谷町に進出した。出羽銀行のその後については不明である。
日進銀行は東京浅草に本店をもつ稲垣市兵衛を頭取とする株式会社である。越ヶ谷支店は稲垣の親戚蒲生村瓦曾根の中村彦左衛門が支店長であった。同銀行の広告によれば、六ヵ月以上の定期預金は利息は年六分五厘、当座預金は日歩一銭一厘とされ、休日は日曜・祭日であるが、日曜といえども二・七日の越ヶ谷市日には無休で営業することを告広している。越ヶ谷町役場をはじめ周辺町村役場や大相模村、八幡村、潮止村、三輪野江村の各信用組合、それに東小林信用購買販売組合との取り引きを宣伝し、信用を第一とすることをうたっている。
これは鈴木銀行および越ヶ谷貯蓄銀行が取り付け騒ぎを起したあとであり、各町村の公金を預りながら信用を失った時点であってみれば、越ヶ谷金融界の次の担い手としては、当然、信用第一を掲げなければならなかったのである。大正三年六月久伊豆神社に開かれた日進銀行越ヶ谷支店の五周年祝賀会は、主な預金者二〇〇名余を集め、市域村々の代表的有名人を網羅して挙行されたが、その努力が実ったわけである。日進銀行は大正十五年に川崎第百銀行に営業権を譲渡する。