明治二年一月、政府は関所を撤廃したが、同四年には寄留者や旅行者へ鑑札(通行手形)を渡す制度を廃止した。こうして旅行の自由がいちじるしく拡大されるとともに、人力車や乗合馬車の出現によって、交通の便が逐次改善されていった。
一面交通量が頻繁になると、それにともない利用される道路の損傷もはげしくなった。道路の補修その他は、はじめすべてが関係町村の負担で賄われたが、明治六年八月、政府は道路の幅を定めて一・二・三等の区分を設け、このうち一・二等道路の補修等には官費を交付することを定めた。
当時県内の一等道路は、中仙道、陸羽街道(日光街道)、北越街道の三道であった。さらに同九年には、一・二・三等道路を、国道・県道・里道の三種に改め、一等道路を国道に、二等道路を県道に指定した。これら官費支弁のものを通称「公益道」と称した。
本市関係の県道では、越ヶ谷・浦和道(赤山街道)が明治十七年に県道の指定をうけている。同二十三年の水害による綾瀬川橋梁破損の修築費補助申請書には、「従来北足立郡浦和町ヨリ、本郡越ヶ谷町ヘ通ズル甘藷・雑穀及薪等一ヶ年凡壱万八千駄、亦鳩ヶ谷・越ヶ谷両町ニ、月六ノ市アリ、之レニ米麦等販売ノ為メ運輸スル事一ヶ年凡ソ二万五千駄、其ノ他荷物人馬通行便利尠カラズ」と記されている。
このほか明治十七年当時の県道として、大沢・野田道(野田街道)、蒲生・岩槻道(草加・大門線)、越ヶ谷・流山道(吉川線)があげられる。このうち大沢・野田道の交通量は、年間駄馬が九五〇〇疋、荷車が八〇〇〇輛、人力車が七三〇〇輛、旅人が一万八〇〇〇人で、貨物の輸送は米二割、麦と雑穀三割、雑貨五割の率となっている。一方越ヶ谷・流山道は、駄馬三二〇〇疋、荷車四二〇〇輛、人力車四五〇〇輛、旅人一万八〇〇人の交通量で、輸送貨物は米五割、肥料二割、雑貨三割の率である。また蒲生・岩槻道は、陸羽道を蒲生から分れ、綾瀬川沿いに大間野・越巻・長島を経て岩槻に至る道であるが、この道路は綾瀬川通り河岸場の荷物運搬で賑わい、毎日人力車と荷車は一五〇輛、駄馬は三〇疋、通行者は一五〇人を数えたという。
その後県道に編入となった主な路線には、大林・岩槻道、吉川・武里道などがある。このうち大林・岩槻道は明治二十八年に県道へ編入されたが、のち越ヶ谷から元荒川沿いに神明下を経て荻島・末田にいたる路線に変更されている。また吉川・武里道は、増林村中島を起点に、古利根川沿いに新方村を経、桜井村平方から武里に通じる路線であるが、関係各村の強い請願で明治三十九年に県道に編入された。
こうした公益道を除いては、道路・橋梁などの補修費用は、すべて関係町村の負担となっていたので、各町村では、主要な道路の県道編入を請願することが多かった。たとえば出羽村では明治二十六年、浦和・越ヶ谷県道(赤山道)から分れ、大字七左衛門を経、蒲生・岩槻間公益道を通って蒲生の陸羽街道にいたる道は、通称「国道下道」と唱え、綾瀬川通りの河岸場をひかえていたので、年間駄馬一二〇〇疋、荷車一万二六〇〇輛、人力車一二〇〇輛、通行者二四〇〇人を数える主要な道路であると主張、これを県道に指定するよう請願している。
なお越ヶ谷から神明下・西新井を経て大門に至り、大門から浦和に通じる道は、大正期のはじめに開通したとみられ、人びとは「大正新道」と称したようである。『埼玉新報』の広告欄によると、大正三年七月、この越ヶ谷・浦和間の大正新道に乗合馬車を開設したことが掲げられ、毎日往復六回、越ヶ谷・浦和間の片道運賃は金三五銭、往復運賃は金六〇銭であると記されているが、詳細は不明である。