河川交通

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明治十六年の河岸場調べによると、当時越谷地域の主な河岸場として、一五八坪の河岸場敷をもった元荒川通り瓦曾根河岸、九三坪の綾瀬川通り蒲生村の半七河岸、四五坪の同村藤助河岸、八九坪五合の古利根川通り増林河岸などがあった。

 伝馬制の廃止によってこれら河岸場の物資輸送はいちだんと隆盛をみたが、河岸場で取扱った物資流通の実態はつまびらかでない。わずかに南埼玉郡ほか二郡の郡長による中川浚渫施工の上申書によって古利根川通り河川交通の一端を知るほかない。

 すなわち明治二十三年三月、古利根川の下流中川に至るあたりは、寄洲・中洲で埋り、船の航行に支障をきたしている。当所を通航する船は年間一〇〇万艘を下らないが、ことに古利根川流域は水田地帯をひかえ、東京府から運送する下肥船は農業を支える重要な輸送機関となっている。したがって中川通りの航行が差支えたときは、古利根川沿村に与える影響は甚大であろう、といっている。この上申書に付された通船調書によると、北葛飾郡松伏村から下流潮止村にいたる古利根川通りの河岸場だけで、増林・赤岩・川藤・吉川・平沼など二一河岸を数える。船の数は高瀬船、伝馬船、似〓船それに小廻船など大小川船三七八三艘、このうち一〇〇石積の船一二艘、八〇石積六艘、五〇石積四八艘、三〇石積二五艘の大型船が含まれ、下肥船は大小一五九二艘を数えるとある。

 こうした川船によって輸送される貨物は、北葛飾郡戸ヶ崎村の明治二十二年度の通船調書によると、東京向けの輸出品として主なものは米三万五〇三三石、麦二一五七石、酒一七〇〇駄、薪五四〇七駄、菓物三〇〇駄、竹一〇〇駄、酢一万三八三一樽、味噌二万三一一二貫、醤油一万七六〇七樽、藁四八〇〇駄などとなっている。一方農村向けの主な輸入品としては、材木二九一一駄、石類二九六八駄、陶器五一駄、〆粕一〇万六六三〇貫、下肥二一万九一〇〇荷、食塩二万五二三〇俵、空樽一万一六七三樽、砂糖六一〇樽、水油六三九樽、紙類二〇駄、石油一九六五箱、空壜五〇〇〇本、織物類八〇〇〇反、鉄物二一〇貫、板類九八七束、土管一一三四本、糸類三一一一貫、このほか雑穀、酒、醤油、菜種などである。

 このうち古利根川通り増林河岸では、高瀬船の出船・入船は年間各三五回、米麦三八二五俵、大豆小豆一四八俵、醤油五五〇樽、酢三四〇樽を東京向けに出荷するが、この運賃はいずれも一駄あたり三銭五厘である。ただしこれらの輸送は粕壁河岸や赤沼河岸からの合船(乗合荷船)で運送する。一方輸入品目は塩大俵四二〇〇俵、小俵一五〇〇俵、この運賃は一駄につき金四銭、杉角材尺〆二七本、一本につき金六銭、束物七三駄、一駄あたり金三銭五厘、砂糖四〇樽、一駄につき金三銭五厘、鉄物二五〇個、一駄あたり金四銭、この輸送もすべて東京から粕壁までの合船で運ばれている。

 また元荒川通り越ヶ谷町の大橋(大沢橋)際の河岸場からの積出貨物は、年間米麦九〇〇俵、運賃は東京まで平均一〇〇俵あたり金二円、それに薪一〇〇〇束、運賃一〇〇束あたり六〇銭とあるが、これらの貨物は当然瓦曾根河岸で積換えられたであろう。しかし越谷周辺最大の規模であった瓦曾根河岸については、明治八年当時、一〇〇石積高瀬船四艘、八〇石積似〓般四艘、二〇石積伝馬般一艘を備えていたことは判明するが、同河岸の貨物輸送量などは不明である。

 ちなみに石積は不明ながら、高瀬船・伝馬船似〓船を備えた粕壁河岸の明治二十二年の輸出入品目をみると、塩一万一〇〇〇俵、穀類一万六〇〇〇貫、鉄物五〇駄、材木角物五〇〇本、板二〇〇束、〆粕五〇〇俵、種粕五〇〇枚を輸入、米麦二万五四〇〇俵、小豆四〇〇俵、味噌六〇〇墫、醤油七〇〇樽を輸出している。しかも粕壁・杉戸地域は、中川の埋洲による航行の不便から、江戸川通り金野井河岸、あるいは宝珠花河岸を通して輸出入するものもあるので、すべて古利根川通りを利用すれば、粕壁河岸の取扱い貨物はこれ以上の数量となろう。ともかく瓦曾根河岸も、おそらく粕壁河岸と同様多量の貨物輸送にあたっていたことは確かである。