渡船場

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越谷地域には綾瀬川・元荒川・古利根川が集流し、しかもこれら河川にかかる橋梁が少なかったため、主要な道路にかかる河川には多くの渡し船が利用された。たとえば古利根川通りをみただけでも、明治十一年に認可された増森村と対岸下赤岩村との渡船場、同じく向畑村と対岸松伏村との渡船場、増林村と対岸上赤岩村との渡船場、大杉村と対岸大川戸村との渡船場、千疋村と対岸大川戸村との渡船場等々がある。

古利根川堂面の渡し船(長野勝氏提供)

 このうち増森・下赤岩間の渡船場賃銭をみてみると、川幅平均四二間、男女とも一人あたり金四厘、ただし五歳未満は無料、五歳から一二歳までは本賃の半額、牛馬・人力車・長持・大七以上の荷車それに荷物一駄分はそれぞれ金四厘、大六以下の荷車と駕籠それに荷物一荷は各三厘宛となっている。つまり客を載せた人力車は客と車夫と人力車で金一銭二厘の運賃になる勘定である。

 また元荒川通り大相模村東方と、対岸増林村西川渡船場の渡船賃銭をみると、川幅平均三四間、一人あたり金一厘、牛馬・荷馬車・荷車、それに荷物一駄が各二厘、人力車・駕籠・長持、それに荷物一荷は各一厘宛となっている。川幅その他の条件で渡船賃にはそれぞれ高低があった。

 こうして渡船場は各所に設けられていたが、必要に応じ新たに開設願いを出すところも少なくなかった。たとえば古利根川通り平方村の一住民は、明治三十六年四月、長さ三間半、幅五尺八寸の木造船一艘を金三八円で購入、平均川幅八〇間、対岸銚子口との渡船は男女とも一人あたり金四厘、牛馬・荷車など金六厘、人力車・駕籠など金四厘を徴収して渡船を行いたいと願い出ている。

 これら厘単位の渡船場賃銭も、大正期に入ると物価の騰貴を理由にいずれも運賃の改正願いを出し、銭単位の賃銭改正を行っている。たとえば古利根川通り平方と対岸藤塚との渡船場では、明治十一年平均川幅一〇〇間、男女一人あたり持荷とも金三厘、駄馬一疋あたり馬子とも金六厘の賃銭で許可をとり、以来営業を続けてきたが、大正七年「今日ノ諸物価騰貴ニテハ到底之ヲ以テ費用償却困難ニシテ、此際通行人ヨリ別紙賃銭請求致度」とて、男女一人あたり金一銭、牛馬口取とも金二銭、荷馬車積荷とも金四銭、人力車乗客とも金三銭、自転車乗人とも金二銭の改正願いを出している。