越ヶ谷町住民の職業別構成

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伝馬制の廃止にともなって、宿場の機能はいちじるしく減退したが、旅籠屋や茶屋などの旅行者相手の稼業が集中していた大沢町と異なり、越ヶ谷町は在郷商圏の中心地として、伝馬制の廃止後も大きな変化はみられなかったようである。

 明治初期の越ヶ谷町住民の階層構成をみると、地主層は一二七戸、地借・店借層は四四六戸となっていたが、その職業別構成をみると第77表のごとくである。このうち、たとえば古着や穀物を商いながら質商を兼業するもの、あるいは太物と荒物、肥料と水油、穀物と煙草を同時に兼業するもの、味噌醸造のかたわら穀物を商うものなど、複数の稼業をもつものがみられるが、分類の便宜上どちらかの稼業に統一した。また類似の稼業を立項中の種目へ組入れたものも多く、必ずしも正確な職業構成を示したものとはいえない。しかしそのおよその構成を把えることは可能であろう。

第77表 越ヶ谷町住民職業別構成(明治初期)
地主層地借店借層
種別戸数戸数
農業23162
穀商198
荒物小間物189
太物古着等132
醤油味噌醸造70
職人6109
飲食料亭58
鉄物古道具516
雛等製造515
青物商525
菓子商421
肥料水油等55
医師僧侶等512
売薬32
湯屋31
質屋21
旅籠屋22
煙草商23
豆腐商03
筆学指南02
馬士06
人力車夫06
瞽女01

 さてこの表によると、地主や地借・店借層の職業を通じてもっとも多いのは農業であるが、このうち地借・店借層による農業稼ぎは、小作あるいは日傭人とみられる。おそらくこのなかには駕籠かき渡世や馬士などからの転業者も含まれていたであろう。たとえば、明治五年に瓦曾根村農家の寡婦へ入聟した越ヶ谷宿の駕籠かき渡世人が二例ほどみられるが(瓦曾根中村家文書)、これらは決して偶然ではなかったと思われる。職人では地主層が大工・雛造り・紺屋を兼ねているが、地借・店借層は、鍛冶職の一三戸、雛造りの一三戸、大工職の九戸、桶造りの八戸、鳶の七戸をはじめ、髪結・紺屋職人・仕立・桐箱・左官・石工・畳・屋根葺・建具・木挽の順となっており、提燈の張替え、傘張り、造花・鋳かけ・植木・綿打などの職業もみられる。さすがに醤油・味噌の醸造は地主層によって占められているが、往還稼ぎの馬士や人力車夫は地借・店借層が占めている。その後馬士は姿を消し、人力車夫や荷車引きが増加していくが、人力車は当時高級乗物で、まだ一般化していなかったようでありその数も少ない。なお荷車輸送は、江戸時代宿場の人馬輸送を保護する立場から、制度上ではその使用を禁じられていたものである。

 また特別な職業では、按摩療治の七戸、医師の三戸、骨継療治の一戸、筆学指南の二戸、祠官の三戸などがあり、僧侶は越ヶ谷天嶽寺の塔中遍照院など七名となっている。つまり往還稼ぎの諸商売を除いては、その職業構成はおよそ幕末期からの踏襲とみて間違いなかろう。

 明治十四年書上による地誌調べによると、当時越ヶ谷町の戸数は六二三戸、人口二八九九人、このうち農業を主とする者が三二〇名、商業同三四五名、工業を主とする者九五名、荷車・人力車などの輸送業者は六七名となっている。さらに明治二十年の地誌調べでは、戸数六二七戸、人口三〇二二人となっており、戸数・人口とも漸増傾向をみせている。このうち農業戸数は二七〇戸、商業二四〇戸、工業五六戸、人力車稼業三三戸、荷車稼業二四戸となっているが、当時越ヶ谷町には荷車一〇六輛、人力車は三五輛を数えた。

 また大沢町明治二十年の地誌調べによると、当時大沢町の戸数は四三一戸、人口二二七八人、このうち農業を主とする戸数一四二戸、商業一一五戸、工業六五戸、農業商業兼業三二戸、雑業七五戸となっているが、商業のさかんな越ヶ谷町に隣接しているため、商工業はもっとも衰退をきわめ、故に農業商業兼業のものが多い、といっている。