明治三十五年の諸営業

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明治三十五年における越ヶ谷町の諸営業を、同年発行の『営業便覧』によってみてみると、次のごとくである。当時は肥料と穀類を同時に扱っていた店が多く、肥料商を含めた米穀商が二二軒、同じく雑穀商が一二軒であり、両種を合せた穀物商が三四軒を数えもっとも多い。次が荒物商の一八軒、青物商と菓子商の各一五軒、割烹店を含む飲食店の一一軒、下駄商と煙草商の各八軒、質屋を兼ねた古着商の七軒、酒商と理髪店の各七軒、足袋商と呉服太物商の各六軒、雛幟商・小間物商・陶器商の各五軒、医師の四軒、油・魚類・綿・洋物・茶・雑貨・湯屋・鉄物商の各三軒、書籍商の二軒、経師屋・建具屋・桶屋・鍛冶屋・夜具屋・乾物屋・時計屋・釣道具屋が各一軒から二軒、このほか法律事務所と生命保険代理店の各一軒がみられる。

 この『営業便覧』は、主として表通りの店舗を扱ったものなので、越ヶ谷町住民すべての営業別構成をここからはみることができないが、明治初期の営業別構成と比較して、とくに大きな変動はみられない。しかし法律事務所や生命保険代理店、あるいは書籍商・時計屋が新たに現われたのに反し、按摩療治や筆学指南・薬種屋・舂米屋・旅籠屋、それに味噌醤油の醸造が姿を消し、髪結が理髪店に変っていたのが時代の流れを反映したものといえよう。

明治35年営業便覧内容の一部

 なお割烹店に関しては、明治三十五年『埼玉新報』が、埼玉県下繁昌割烹店の人気投票を行なっているが、この中間発表によると、五万六〇〇七票を獲得した大宮公園八重垣を最高に、次が二万八三六八票の幸手町義語家となっている。このなかに、一万九八七〇票を集めた越ヶ谷町の紀伊国屋が五番目に、九七五〇票の越ヶ谷町嶋田屋が一六番目に、二四〇六票の越ヶ谷町天芳楼が二五番目に、二九一票の大沢町うどん屋が四一番目にランクされており、越ヶ谷町の割烹店は、当時繁昌をきわめていたようである。

 一方大沢町の営業別構成を、同じく明治三十五年の『営業便覧』によってみると、料理屋を含めて飲食店の一一軒、待合茶屋を含めて芸者屋の一〇軒、旅館業の三軒が大沢町の特徴を示している。なお明治十年に、一二軒の大沢町旅籠屋が、売春を行なっていたかどで罰金刑に処せられ、総額一三四円の納入を命ぜられている(埼玉県立文書館「収納」書類)が、明治三十五年には旅館業は三軒に減少している。

 このほか雑穀商を含めて穀商が九軒、菓子商が八軒、荒物商が六軒、煙草商が四軒、理髪店が三軒、鰻屋・蕎麦屋・漬物屋・製茶屋・酒屋・湯屋・呉服屋・薪炭屋が各一軒ないし二軒、それに越ヶ谷停車場前に開業の運送店が二軒となっている。また雛人形・箪笥・桐箱・箒・棕梠縄・綱・荷車・提燈・造花などの製造業者が軒を並べているが、これも大沢町の一つの特徴を示したものといえよう。すなわち大沢町は、商業の町というよりも、江戸時代からの伝統を受継ぎ、芸者屋などを中心とした歓楽街を形成していたが、同時に表通りに箪笥・桐箱、棕梠縄などの製造業者が軒をつらね、家内工業の街を現出していた。