欠落人の増加

257~258 / 1164ページ

大沢町の戸数の推移をみると、文政五年(一八二二)に四八一戸を数えた戸数は、明治八年には四五〇戸、明治二十年には四三一戸と減少傾向をみせている。この戸数減少の要因としては、往還稼ぎに見切りをつけて、東京あるいは横浜などに退転した者が多かったとみられるが、なかには正規の手続きを経ずに逃亡した欠落人も少なくなかったであろう。

 たとえばこうした欠落人の例を、越ヶ谷町明治四年の人別帳によってみると、越ヶ谷町の当時の戸数は五六六軒、人口は二五八四人であった。このうち人口を同三年度と比較すると、入人一六三人に対して出人は三四三人、出生五二人に対し死亡九九人、差引二二七人の減少となっている。この出人のなかには欠落人が含まれているが、その数は実に七三名を数える。この数は、安政四年(一八五七)から明治三年まで一三年間の欠落人が六名に過ぎないのにくらべると異状な現象である。ことに、その理由などは不明であるが明治四年二月十二日の欠落人は三〇名にのぼっており、妻子ともども一家中逃亡した例も多い。欠落人の年齢は男女とも二〇歳から五〇歳までの壮年によって占められているが、その階層はもちろん地借・店借層が圧倒的に多い。

 同五年以降の情況は不明であるが、越ヶ谷町の場合、こうした現象は一時的なものであったとみられる。しかし往還稼ぎによって生計を立てている者が多かった大沢町は、その後も退転者や欠落人が続出したとみられ、それが戸数の減少に現われたものと考えられる。