越ヶ谷町は江戸時代から二日七日の六斎市が開設され、在郷商圏の中心地となっていた。ことに米穀はじめ雑穀その他の商品取引は市日に集中し、この日に立てられた相場は越ヶ谷市相場と称されて、近郷における商品価格の標準となった。明治に入り流通機構に若干の変化がみられたが、市場の機能はまだ明治期を通じて重要な意味をもっていた。
明治二十年の市場調査によると、当時越ヶ谷市場には、穀物問屋五人、同仲買人一八人、白木綿問屋一人、同仲買三人、青物問屋二人、同仲買一三人を数えたが、市場の取引金額は問屋の扱い高が三万四五四円、仲買の扱い高が四万八二二二円、計七万八六七七円に及んでいた。またこの市場で取扱われる取引品目は、米・麦・大小豆・和洋白木綿・和洋糸・洋糸織・和糸織・和横織などとなっているが、このうち白木綿の取引数量は、明治三十三年度で四万三二六〇反に達している。なお明治二十年度の市場取引金高は、岩槻町が九万九二三〇円、幸手町が六万三九六三円、吉川町が六万七一六二円、栗橋町が四〇〇五円、鳩ヶ谷町が五万四八〇四円となっている。さらに明治三十八年の市場調査によると、当時越ヶ谷市の主な取引品目は、米麦・大豆・白木綿・洋糸・甘藷などで、一ヵ月の取引見積額は一万三五〇〇円となっていた。
このように市場の機能は、まだ町にとっては盛衰を左右する一つの条件であったので、市場の開設場所をめぐり、町内どうしの争いを起すこともあった。明治二十年七月、県令によって新たに街路取締規則が公布されたが、越ヶ谷警察分署はこの法令にもとづき、道路に掲示杭を立てて露店や屋台店の設置区域を指定した。ところが市場商人は越ヶ谷町のうち本町・中町に出店を集中させたので、新石町(新町)の商人は驚いてこれに抗議した。すなわち新石町の商人は、「自分等住居ノ町内ハ掲示杭内ニアリナガラ露店・屋台店ヲ開業スル者無之ニ付、自分等一同不利益ヲ来ス」という理由による。つまり市場開設外の場所は、おのずから客足が遠のくということであり、新石町の商人にとっては大きな問題であったのである。