この新石町の抗議に対し、本町・中町の商人は、新法令の公布によって従来守られてきた「越ヶ谷宿市場区画規約」は無効だと主張したので、新石町との間で訴訟となった。本町・中町が無効だと主張するこの市場区画規約とは、大要次のごとき内容であった。
一、市場の開設地は、毎月二日・十二日・二十二日の二の日は本町と中町、七日は新石一丁目、十七日は新石町二丁目、二十七日は新石町三丁目とする。
一、各町に一名の市場取締世話掛りを置き、市場に関する一切の事務を取扱う。
一、市場に当った町内の市場取締世話人は、街路取締規則を守り、街路を通行する車馬の妨げにならないよう注意する。
一、定められた市場区域以外の場所で、猥りに市の商人へ露店や家屋を貸さないよう、町内に告示してその徹底をはかる。
一、市場商人は当宿の規約を守り、必ず市場に当った町内の地主や家主に承諾を得てから店を開く。但し掃除料として一坪あたり金二銭を市場取締人が徴収する。
一、一坪あたり金二銭の掃除料のうち一銭五厘は地主あるいは家主に納め、残りの五厘は市場取締世話掛りの給料にあてる。
一、市場区域外において市の商人へ家屋や露店の敷地を貸さないことを堅く守る。
というものであった。江戸時代は、本町・中町が通常の市場開設地域となっていたが、おそらく明治になってから七の日は新石町に市を開設するとりきめが行われたものであろう。
この市場開設区域をめぐる争論は、結局翌二十一年五月、原告新石町側の主張通り、規約を存続させ、七の日は新石町に市場を開設することで和解が成立した。
なお越ヶ谷町では明治十九年、米質の不良・乾燥の粗悪などを防止する目的で、同業組合準則にもとづく越ヶ谷米穀商組合を結成している。この組合と市場とのかかわりあいはつまびらかでないが、明治二十六年には正規の手続きを経て正式に米穀商組合を発足させている。さらに明治三十年六月には、越ヶ谷商業組合が設立されているが、同三十二年十二月には、越ヶ谷町の小泉市右衛門らが発起人となり、埼玉木綿織物同業組合という広域組合を発足させていた。