越ヶ谷町では近郷他村にさきがけ、明治三十年七月に越ヶ谷町青果物市場を開設した。開設にあたっての詳細は不明であるが、越ヶ谷町の住民大塚善兵衛による市場開設の呼びかけ(大塚伴鹿所蔵文書)があずかって力あったものとみられる。当時の青果物流通に関する状況の一端を知るためこれを掲げると、次のごとくである。
八百屋諸君、我が越ヶ谷の地は、四面に広漠たる平野を控へて、蔬菜・果物の生産頗ぶる饒多なるに拘わらず、生産物の過半は千住・野田・岩槻・鳩ヶ谷・川口方面に運ばれ、青物市場としては甚だしく振わざるの現況に在る。越ヶ谷町に取りて誠に遺憾千万な話しではありませんか。
若しも十分なる資本を投じて、基礎の鞏固な問屋を作り、生産者に対しては丁寧、賑路に対しては敏活な商売をするならば、今の荷よりも三倍の荷を見る事は易々として掌(たなごころ)を飜へすが如きものであろうと信ずる。十分なる資本と云ふも、之を作ること左までの難事ではない。即ち諸君が手に手に勧誘して拾株二十株位宛て作り、又諸君も一株や二株宛て持って株式組織の会社を作るならば、立ち所に弁じ得られるであろう。斯くして諸君は商売で儲けた上に、なお会社の利益の配当を受くるのであるから、言わば諸君自身が問屋をやると同様である。
且つ一たび会社組織とならば、単に此附近で出来る野菜物・果物を買ふて売捌くのみならず、密柑・夏密柑・林檎・梨子等を仕入れるに付ても、従来よりは大仕掛けにする事を得る故、東京との取引を避けて遠隔なる生産地と直接交渉を開く事になる。此附近の人々は、之れが為に美味に飽く事を知らず大いに喜ぶであろう、同時に会社の得る所の利益も亦決して少額ではないと信ずる。
尚ほ此会社は其の余れる資本を、株主たる諸君に相当担保の下に、低利にて貸付くる事を副業とする故、諸君の之れに依って享くる利益も大きいだろうし、会社としても相当の利益になるのである。(中略)
想ふに此計画の健実にしてしかも時勢に適し、町の為にも附近村落の為にも、将又諸君の為めにも有利有益なる事は今更説立てるまでもなく、諸君のとくに知悉せらるゝ所ではあるまいか。諸君希くば奮発一番、心を恊せ力を戮せて、此会社を組織し経営し発展せられん事を。
開設された当時における市場の規模その他は不明であるが、埼玉県に提出された昭和四年の市場届書によると、その設置場所は越ヶ谷町四六五六番地(付図によると現在の越谷市中央保育所近辺)となっている。市場の開設時間は毎日午後四時から同七時までの間で、定休日は四月と八月の無休月を除く毎月二十日である。
年間の取引数量は、蔬菜類が金四万円、果実類が一万円、荷主は市場に販売の委託をするが、売買方法は着荷順で〝せり〟による。ただしとくに必要と認めたときは入札売、または相対売の方法をとることもある。売買の手数料は売買金高の一割を荷主から徴収するが、このうち一〇〇分の六を歩戻しとして買受人に交付することになっていた。こうして年間の収支決算見込額は、収入が金五〇〇〇円、支出は歩戻金三〇〇〇円、消耗品一九〇円、課税金一五〇円、木炭代一八〇円、電灯料一二〇円、地代金四八円、差引金二三〇円の収益としている。