千住馬車鉄道

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明治二十二年六月、東京府日本橋の高木怡荘、草加町の高橋荘右衛門らは、陸羽街道(日光街道)を利用し、千住より北葛飾郡幸手町までの馬車鉄道敷設を計画、これを埼玉県知事ならびに東京府知事に請願した。

 鉄道敷設の理由としては、「陸羽街道は、東海道・中仙道とともに、我が国の三大街道に数えられているが、日本鉄道会社陸羽線(現在の東北本線)の開通するに及び、その沿線町村はめざましい発展をみている。ひとり陸羽街道東京・栗橋間は鉄道沿線から遠く離れているため発展の立遅れを来している。千住・栗橋間は土地すこぶる肥沃な穀倉地帯であり、人家が密集している。しかも商業工業も盛んな所であるが、いまだに貨物や旅客の輸送は馬車を利用し、中川・綾瀬川の舟運に頼っている。しかし速度遅鈍な馬車や、曲折迂廻で日数のかかる舟運では不便このうえなく、地域産業の発達が阻害されている。この間に馬車鉄道を敷設すれば、物資流通のうえからも、殖産興業のうえからも益するところが大きい」との要旨であり、資本金一五万円の千住馬車鉄道会社設立の認可を求めた。

 関係官庁は、この会社設立を認可したが、鉄道敷設にあたっては、沿線各町村に敷設についての故障の有無を諮問している。これに対し、新田・谷塚などの各村は、鉄道敷設には反対ではないが、陸羽街道の道幅は狭隘で交通の危険が大きく、ことに陸羽道往来の肥料や穀物・野菜運搬の車馬は一日あたり二〇〇余輛を数える雑踏で、このなかに鉄道を敷設すれば、衝突などの人身事故を招きかねないとて、その善処方を要望していた。

 因みに軌道敷設に関しての規定では、軌道の内法(うちのり)は二尺五寸(約七六センチメートル)とする。軌道ならびにその左右一尺五寸には砂利や木石を敷きつめ、道路と平らになるようにする。軌道は両側に人家が連続している場所においては道路の中央に、その他の場所では車体との巾二尺以上を残して道路の一方によせる。軌道中、行違い複線を設置する場所は四間以上の道幅をもった場所とする。客の乗降ならびに貨物の積下しのほか、道路中に停車することはできない、などと定められていた。

馬車鉄道車体図

 また越ヶ谷・大沢間の元荒川にかかる境大橋に軌道を敷設するため、橋にそって副橋を架設したが、元荒川沿岸の関係町村より、流水の支障をきたし洪水時の被害を大きくするとて、副橋の徹去を求められるなど、その工事は決して順調ではなかったようである。それでも明治二十六年二月には、千住・越ヶ谷間の軌道敷設が竣功、同月七日より旅客輸送の営業が開始された。この旅客運賃は、平均一マイルあたり金二銭四厘の割であり、千住茶釜橋・草加間一三銭、千住・大沢間が二五銭、四歳から一二歳までの児童が半額、四歳以下の小児は無賃となっていた。

 ついで馬車の軌道は粕壁まで延長されたが、同年六月、千住・粕壁間の貨物輸送がはじまった。この荷物の運送賃は、一貫二〇匁の荷物で千住・越ヶ谷間が一四銭、千住・粕壁間が二五銭二厘である。また一六貫目の貨物は千住・越ヶ谷間が二〇銭、千住・粕壁間が三〇銭、八〇貫目の貨物は千住・越ヶ谷間金一円、千住・粕壁間一円八〇銭、一一二貫目の貨物は千住・越ヶ谷間一円四〇銭、千住・粕壁間二円五四銭、一六〇貫目の貨物は千住・草加間一円、千住・越ヶ谷間二円、千住・粕壁間三円六〇銭という運賃であった。