草加馬車鉄道

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千住馬車鉄道会社は、その後経営不振に陥り、明治三十年廃止に至った。これをうけて草加町戸塚弥吉ほか四名は、同年十一月千住から大沢町に至る既設の軌道と車輛を買収、草加馬車鉄道会社を創立、同会社による営業願いを申請した。会社設立の理由は、(1)旅客貨物の運輸数量を調査したところ、その数量は決して少いものでなく、合理化をはかれば収支償えぬほどのものではない。(2)いま馬車鉄道を廃止すれば、沿線町村の不便は大きく、土地の衰運を招く。(3)将来陸羽街道と平行し東武鉄道が開通される見込みであるが、馬車運輸で千住・大沢間一日一〇回以上の往復を持続すれば、乗客にとって随意昇降の便あり、客が東武鉄道に吸収されるおそれはない、との結論によるものであった。

 この草加馬車鉄道会社による馬車運輸の再開に対し、越ヶ谷町の有志一同は、「馬車鉄道の開通によって東都往復の利便を得たもののその障害も大きく、これを償うに足らない。すでに人身事故だけでも越ヶ谷町付近のみで死亡者二名、下脚切断の重傷者二名を数える。これに加えるに越ヶ谷町は商業によって生計を立てている町であり、商業の隆盛は貨物移出入の如何にかかわっている。そして貨物の輸送はひとえに平坦なる道路を必要とするが、鉄道馬車のため障害を受けていた。幸い千住馬車鉄道会社は大沢町より粕壁町に至る軌道を徹去し、ついで経営の行詰りから廃業するに至った。そこで越ヶ谷町以南の軌道も徹去されるとみられたが、草加鉄道会社がこれを買取り、再び営業を開始しようとしている。これを知った越ヶ谷町民は、鉄道馬車による被害の実情を訴えて軌道の徹去を嘆願、越ヶ谷町会においても公益に害あるものと判断した。したがってすくなくとも越ヶ谷町内の軌道だけでも早急に徹去していただきたい」という要旨の請願書を埼玉県知事に提出した。

 しかしこの請願の効なく同三十一年六月、草加馬車鉄道会社の設立が許可され、同年十一月千住・大沢間馬車鉄道の営業が再開された。草加馬車鉄道会社によるこのときの資本投下額は金四万一六六六円余でなる。このうち二万五八〇〇余円が線路の復旧整備、七三〇〇余円が車輛や馬匹の購入、そのほか建物・地所・架設橋梁費などであり、これら資金の調達は資本金三万三〇〇〇円、社債五〇〇〇円、借入金二六一九円余などで賄われた。また草加馬車鉄道の創業第一期成績を、明治三十一年十一月から同三十二年四月末日までの損益勘定によってみると、収入は乗客賃銭金一万二七七三円余、雑収入一三八円余、合計一万二九一一円余である。支出は馬の糧食三四四〇円余、旅費・手当を含む諸給料三七一四円余、線路・器具・車体の修繕費一〇六八円余、雑費ならびに消耗品費一四八五円余、創業費三六一〇円余、馬の斃死損失金七七八円余などで計一万二〇一三円余、差引八九八円余の利益金となっていた。ただし今期の乗客数は、東武鉄道敷設工事従事者の往復利用が頻繁で、予想外の収入であったが、疾病や斃死の馬匹が続出し思わぬ損失を蒙ったので、その分だけ収益が少かったとこれを報じていた。その後草加馬車鉄道は東武鉄道の開通によって打撃をうけ、間もなく廃業した。