鉄道の敷設

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品川・横浜間にはじめて鉄道が開通したのは明治五年六月であったが、明治十六年には日本鉄道株式会社による高崎線上野・熊谷間が開通、同十八年には同社による東北線大宮・宇都宮間が開通した。その後明治二十七、八年の日清戦役による鉄道敷設ブームに刺激され、同二十八年四月、東武鉄道株式会社が設立され、千住から越ヶ谷・粕壁・羽生を経て栃木県足利町に至る八三キロメートルの鉄道敷設が計画された。

 この計画が立てられると、沿線の住民はこれを支持し、早期開通の陳情をくりかえすところもあった。ところが諸河川が集流し、治水上不安定な沖積地下方の草加・越ヶ谷・粕壁地域の住民は、この鉄道敷設に不安を感じるものもあり、ことに敷設線路中の綾瀬川と元荒川の鉄橋に対し、明治三十年六月関係町村によるその橋台の徹去を強硬に上申したりした。つまり橋台によって洪水時の河川の滞流をまねき、田畑の冠水を恐れたのである。

 これには当時東武鉄道を批判する『八州日報』の論説が一層人びとの不安を増長させていたかも知れない。すなわち当新聞は、「該工事の成効を見よ、其ケ所は何れにして其工事は能く堅牢なるか、一見直ちに以て寒心に堪へざるものあるを発見せん、之れ即ち骨硬喉に立つものにあらずして何ぞ、骨硬既に喉に在り、縦令汽車の便あるも吾人に於て将た何にかせん、其咽喉の苦痛は疾病を誘起し、其結果は吾人の身命を奪はずんば止まざるべし、豈恐れて怖れざるべけんや、而かも其病源は全く東武鉄道会社の工事より起るなり、吾人は大に奮起して之が改善を迫まらざるべからず、若し夫れ偸安一日を緩ふするあらば、時に其害毒の何辺に到るかを察知すべからざるものあらんとす、而して其ケ所は何所か、即ち大沢町旧荒川の堤防にして鉄橋アパットの所なり、其粗造にして不堅牢なることは皮想の見を以てするも尚ほ知り得べし、去れは不幸にして一朝秋水の到るものあらば、其西方の堤塘は分時にして潰決し、数千町歩の田畝は忽ちにして大波を掀飜するに到らん、此の時に際しては最早骨硬喉に立つ的の場合にあらずして、吾人数万の良民は何所に食を得、何辺に衣を需めんや、将に仁慈の恩沢を仰ぐか、餓死を待つの他途あらざるなり」などと論じていた。

 このほか線路の敷設にあたっては、鉄路によって切断された道路や用排水路の模様替あるいは踏切の設置などで、地元村々とトラブルが生じたり、なかには用地の売収に応じない者を土地収用審査委員会に付託するなど、事業は難行したが、明治三十二年の初頭には用地の売収も完了し、工事は急速に進渉した。鉄道用地の反当り買収価格は、たとえば大袋村でみてみると、上田二七〇円、中田二六五円、下田二五〇円、畑二〇〇円の割であり、大袋村の敷地合計三町五反一畝三歩、買収価格八四九八円一四銭八厘であった。