鉄道の開通

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かくて鉄道敷設工事に着手してから三年、明治三十二年八月二十七日、北千住・久喜間四〇・一キロが開通し営業が開始された。同年十二月の『時事新報』に掲載された同鉄道の営業案内広告によると、当時の始発時間は午前六時十分で、北千住と久喜両駅より同時発車、双方一日一四回の運転、終車は北千住午後七時五分の発車で久喜着午後八時三〇分、久喜発午後七時で北千住着が午後八時三五分、この間の所要時間はおよそ一時間三〇分であった。

 乗車賃銭は日本鉄道会社上野駅からの連帯切符で西新井まで一二銭、草加まで一七銭、新田一九銭、蒲生二一銭、越ヶ谷二三銭、武里二七銭、粕壁三〇銭、杉戸三七銭、久喜三九銭となっていた。このほか一等、二等の別が設けられ、二等客車は普通客車の五割増、一等客車は二等客車の五割増運賃であった。

 この東武鉄道の開業景況を『埼玉経済時報』の報道によってみると次のごとくである。

  同鉄道は、二十六日首尾よく試運転を終り、翌日初めて開業せしが、当日は沿道の人々待に待ちたる開業を喜びて、各駅とも人出中々盛にして、乗車賃銭半減の事なれば、何れも物珍らしさに弐銭三銭を投じて一駅間づゝ乗り試しを為す人々多く随分の雑沓をなし、千住久喜両端駅其乗降人員一千五六百人もありし由、駅員の不馴なりしにも拘らず上下七回づゝ一列車荷物車を列ねて十輛、上下列車共少しの故障なく無事運転を終りたり、二日目即ち二十八日は、初日に倍したる多数の乗客にて各駅共に駅員は何れも目の廻る程の大混雑を極めたり、尤も是れは旧暦盆の二十三日にて、杉戸駅より十丁余を距る高野村永福寺の大施餓鬼会に相当し、恰も好し鉄道開通に際したれば、参詣者例年に数倍し、杉戸駅にて降車したる人員無慮一万にも上りたる有様にて、久喜・杉戸・粕壁・越ヶ谷等各駅に備へある乗車切符は、何れも午前中に売り切らんとするの状況なりしかば、駅員は急に東京本社に打電して切符を取寄、辛ふじて間に合せたる程なりしと、扨て此日の収入は、杉戸駅のみにて二百円に達し、他の各駅も之に準じて此日の全収入七百余円に上りたる由、要するに同線路は、武州東南部にて、比較的人口の稠密なる旧奥州街道に沿ふて通じ、傍ら下総の一部分を擁し、日本鉄道線路との並行距離も三里乃至四里の隔たりを有するを以て、沿道各駅乗客の吸集力に富める事疑ひなく、猶又貨物の如きも日を経るに随ひ今後愈々輻輳し得べきは、従来鉄道事業の実況に照しても明かなる事実なれば、将来の好望期して待つべきなり、但し目下の処一停車場毎一列車の乗客百二十名乃至百五十名にして、其中上り六、七分を占め、下りは割合に少しといふが、該鉄道客車の構造は目下他に余り類なき一列車打通しにて、内部の造りも腰掛は縦なりに両側に二筋つき、中間打透しにて混雑の憂なく、夏分などは衛生上にも適して乗客の為め最も適意を感ぜしむる。

 開通当初は物珍しさも手伝って、その利用者は少くなかったようである。

 なお当時の動力車は蒸汽機関車であり、電化の普及で逐次電車が運転されるようになったのは大正十三年からである。鉄道路線も同三十五年には加須まで延長されると同時に、ターミナル駅も千住から業平橋に移され、同四十五年には群馬県伊勢崎まで開通した。さらに昭和四年には東武日光線の開通で日光まで路線が延長されたが、昭和五年にはターミナル駅が浅草に設けられた。

蒸気汽関車第1号(東武鉄道)