明治三十二年八月、東武鉄道北千住・久喜間の開通にともない、北千住・久喜間に西新井・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸の各停車場が開設された。このうち越ヶ谷停車場は、越ヶ谷・大沢ともに停車場の誘致につとめたが、結局積極的な大沢町の運動が効を奏し、大沢に停車場が設けられて越ヶ谷停車場と称された。ついで同年十二月、新田・蒲生・武里・和戸の四停車場が開設された。このうち蒲生は通称三軒茶屋という所に設置されたが、のち現在の場所に移されている。その後大正九年、越ヶ谷町に「越ヶ谷駅」が開設されたが、これにともない大沢に設けられていた「越ヶ谷駅」は、「武州大沢駅」と改称された。ついで大正十五年には大袋駅が設置されたので、当時越谷地域には四ヵ所の東武鉄道駅が設けられていたわけである。
ともかく開設当初の主要な停車場は、粕壁・越ヶ谷・西新井・北千住であったが、日本鉄道との接続駅北千住を別格として、広域な在郷をひかえた越ヶ谷・粕壁が交通の要衝としてその乗降客は群を抜いていたといわれる。ことに越谷は、いわゆる大相模不動尊の所在地であり、東武鉄道は九月四日の大会式には、三割引の往復切符を発行、臨時列車を増発し、多くの乗降客を越ヶ谷・蒲生の両停車場に集めたという。
明治三十四年度の越ヶ谷停車場の乗降客をみてみると、年間乗降客二二万四二七八人、その取扱い貨物は五六四〇トンである。これに対し、蒲生停車場の乗降客は七万一六七人、貨物は四八八トンである。貨物の移出入荷高の内訳は不明であるが、東武鉄道の全体からみると、各停車場の出荷品は、穀類・莚・生鳥・鶏卵・醤油・綿布・繭・菓物・野菜であり、移入品は肥料・雑貨・日用品が主なものであった。
これら停車場の開設で、その土地の繁栄が促進されたのは事実であり、粕壁・越ヶ谷・杉戸などいずれも新築の家屋が増加し、飲食店や運送店の出店がふえつつあると、当時の新聞がこれを報じていた(『埼玉経済時報』)。しかし越ヶ谷町は大正九年、越ヶ谷町に「越ヶ谷駅」が開設されるまでは、貨物の輸送は綾瀬川通り蒲生の河岸場、武陽水陸運輸会社(藤助河岸)を主に利用していた。