越ヶ谷町の米穀輸送

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明治三十二年に東武鉄道の開通をみたが、明治三十五年にはすでに越ヶ谷停車場(現北越谷駅)前に、共同運送店と川上運送店の二運送店が営業をはじめていた。つまりこれら運送店の営業は、東武鉄道による貨物運送が利用されていたことを示している。しかし越ヶ谷町の米穀肥料商組合は、米穀の出荷をすべて従来通り、荷車によって蒲生河岸にこれを積出し、綾瀬川の舟運で直接東京市に輸送する方法をとっていた。

 大正三年九月、東武鉄道と運送店との働きかけにより、越ヶ谷町米穀肥料組合は、ようやく東武鉄道に米穀の積荷を託すことに同意した。だが永年にわたる荷車稼業者との密接な縁故関係を無視することができず、仲町会所で協議を重ねた。その結果、従来越ヶ谷と蒲生藤助河岸間金六銭宛の荷車運賃を五銭に引下げることで荷車を利用することに一決、これを車力側頭取に申入れた。これに対し車力側は、同月十二日の市日を期し、総罷業でこれに対抗した。米穀商側は突然のことに狼狽し、とりあえず東武鉄道に託して一車一一七俵入れ六車分の米を積出した。その後両者交渉のうえ、荷主側の要求通り、金六銭の運賃を五銭に引下げることで車力側が妥協した。

 もとより鉄道によって米穀などを積出すのは便利のようにみえたが、越ヶ谷米穀商があえて舟運を利用したのは、手数においても時間においても、むしろ軽便迅速であったからである、と『埼玉新報』は報じている。ともかく越ヶ谷町の米穀輸送は、大正期のはじめ頃までは、舟運に頼っていたことが知れる。

 なお大正八年の越ヶ谷停車場新設期成同盟会の要項によると、「当町ハ当町商工業団体、若クハ商工業者ヲシテ相当ノ事由アラザル限リ、全部東武鉄道株式会社ト貨物運送ノ契約ヲ締結セシメ、之レガ保証ノ責ニ任スル事」との条項があるので、大正九年越ヶ谷停車場開設以後は、おそらく越ヶ谷町の物資輸送はすべて東武鉄道が利用されたとみられる。