明治二十八年七月、私設鉄道(東武鉄道)開設計画の出願をうけた逓信省鉄道局は、その経過地町村における旅客・貨物交通の状況調査を各町村に命じた。これに対し桜井村では次のごとき調査報告を提出している。
まず米麦の年間移出高は米が二八五〇俵、麦が六〇〇俵で、出荷先は主に越ヶ谷町、運搬方法は荷車か荷馬車によるが、運送賃は一〇貫目一里あたり一五銭で、総額一一五円である。また藍玉の移出は三〇〇俵、このうち一〇〇俵は鳩ヶ谷町へ、一〇〇俵は草加町へ、残り一〇〇俵は流山町へ出荷している。運送は荷車や荷馬車を利用し、その運賃は一〇貫目一里あたり一〇銭、総額二四円である。このほか桐小箱は六二八俵、ほとんど東京市に移出しているが、荷車や荷馬車の運賃は一〇貫目一里あたり五〇銭で総額四二円九六銭、麦藁紐は、一五〇俵、同じく東京市に移出、運賃は一〇貫目一里あたり三〇銭、総額で三一円五〇銭であるとしている。
一方主な移入品目は、〆粕一一三〇俵、塩一三〇九俵、石炭油(石油)四二〇箱、砂糖一四箱である。このうち〆粕・塩・石油は越ヶ谷町から購入するが、砂糖は粕壁町から移入する。いずれも荷馬車で運送するが、同じく一〇貫目一里あたりの運賃は一五銭である。なお〆粕の使用は一反あたり五斗、食塩は一人あたり一斗二升、燈火用石炭油は一戸あたり三斗、砂糖は一戸あたり一貫目の年間平均消費量となっていると記している。
また旅客調べについては、年間東京市に旅行するものは二〇〇人ほどで、馬車あるいは人力車を利用するが、一〇人中二人は徒歩で往来する。上州前橋市への旅行者は三〇人ほど、いずれも汽車便である。下総国成田町への旅行者は一〇〇人を数え、川船あるいは人力車を利用して往復するが、一〇人中五人は徒歩で往復する。このほか越ヶ谷町へ五〇〇〇人、粕壁町へ三〇〇〇人、岩槻町へ五〇〇人、草加町へ一〇人ほどの旅行者があるが、いずれも徒歩であるといっている。
さらに車馬を利用したときの運賃は、人力車が一里あたり七銭であるが、夜行や急行の際には五割の割増銭が付される。荷車は一駄積で一里あたり八銭、荷馬車は二駄積で同一六銭である。なお職人の日給は、大工・左官で三五銭、人足で二五銭が相場であると記されている。こうして桜井村では、鉄道敷設については、桜井村から二里以内に停車場を設置する運動を進めるよう、武里村などに働きかけていた。